この人は大工の子ではないか。母親はマリアといい、兄弟ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。
マタイ13章55節(参考聖書箇所同書13章53〜58節)
主が神の国の教えを説き始められたのを聞いて、目を円くしたのは、イエスを小さいときからよく知っていた、ナザレの村人でした。なにしろ親もきょうだいも村付き合いの間柄です。説かれている神の国の教えは、教えそのものより、説いているイエスがあまりにもよく知り過ぎた身近な存在であることに到底受け入れ難いものを感じたのでした。
人はあまり身近に感じ過ぎる人の話を聞くと、かつての思い出が甦って、冷静さや距離感をもって聞き分けることが難しくなる傾向がありますが、ナザレの村人もきっとそうだったのでしょう。
イエスは、このような村人の反応に対して、昔の格言をもって答えられました。「預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである」(57節)。知り過ぎているという思いは、真実に目を向けることを遠ざけるというわたしたちの体験と重なります。主は、ときには不信仰に至ることもあると警告を発しておいでになります(58節)。
けれども見方を換えれば、知り過ぎるほど近いところに救い主はおいでになるということでもあります。