何事も、自分で勝手にあきらめてはいけません。【聖書からよもやま話126】
主の御名をあがめます。
皆様いかがお過ごしでしょうか。MAROです。
今日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。
毎回、新旧約聖書全1189章からランダムに選ばれた章を読んで、僕の心に浮かんだ事柄を、ざっくばらんに話してみようという【聖書からよもやま話】、今日は 旧約聖書、 エズラ記の7章です。それではよろしくどうぞ。
◆エズラ記 7章6節
彼の神、主の御手が彼の上にあったので、王は彼の願いすべてをかなえた。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)
エズラは捕囚の地バビロンから5000人ものイスラエル人をエルサレムに連れ帰り、そしてエルサレムの神殿を再建した指導者です。この聖句の「彼」というのはエズラのことを示し、「王」というのはペルシア王アルタクセルクセスのことを示しています。
王はペルシアの王であって、イスラエル民族の王ではありませんから、特にエズラの要求を聞いてイスラエル人に便宜を図る必要なんてありませんでした。しかし王はエズラの願いをみんな聞いて、「帰りたいイスラエル人はみんなエルサレムに帰っていいよ」「神殿を再建するために必要なお金も出しちゃうよ」と、イスラエル人に対して破格の待遇をしました。王は別の神を信仰していましたから、重ねて言いますが、普通に考えればそんなことをしなければならない筋合いはまったくなかったわけです。
ではどうして王はそんなことをしたのでしょう。聖書はシンプルに「主の御手が彼の上にあったので」と答えています。つまり、すべて神様のなさったことだということです。神様にかかれば、世の権力者の心を動かすことも、いともたやすいんです。「こんなこと、願っても絶対にOKもらえないよなー」なんて考えてしまうことであっても、それが神様の御心であれば、意外とすんなりと通ってしまうこともあるんです。
自分で勝手に「無理だよな」なんて諦めずに、まず願ってみること、求めてみること。それが御心ならきっと道は開けます。しかも自分が望んだ以上に祝福されることさえあるかもしれません。もちろん、それで必ずしもなんでも自分の思い通りに叶うわけではないですけれども。
ずいぶん昔の話ですけど、好きな人に告白できずに「どうせ無理な恋だよ」なんていじけていたら、友人に「お前が勝手に決めるなよ!無理かどうかは相手が決めることだろ!」と怒られました。それで奮起して「あたってくだけろー!」と思って告白してみたら、なんと思いのほかうまくいきました。自分で勝手に諦めることは、相手にはもちろんですが、神様にも失礼なことだなと学ばされました。
・・・まぁ、半年くらいでその女性とはお別れしてしまったのですけども。甘酸っぱい昔の恋のお話でした。
それではまた明日。
主にありて。
MAROでした。
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