あまりにも私は何をやらせてもできないので、ひところ「私は神様の失敗作か?」と本気で考えていました。どうしても自分は神様の失敗作だとしか思えない。数年前まで、その気持ちはありました。
しかし、いまの私は違います。私は神様の失敗作ではありません。これが私なのです。私の特性が世の中のニーズにあまりにも合わないため苦労をしているだけで、私が失敗作なのではない。この私を作ったのは神様だ。神様は、失敗作を作るほど愚かではない。
こう書いてしまうと、その途中の私の真剣な苦しみがすべて省略されるので、私がどれほど苦しんだか読者のみなさんには伝わらないでしょう。でも、いいのです。私だけではありません。世の中に神様の失敗作というものは、およそ存在しないのです。
よく、私が何もできない、何をやらせてもダメ、何をやらせてもできない、ということを表明すると、「そんなことないよ。あなたにはできることがたくさんあるよ」とおっしゃってくださるかたもおられるのですが、その言い方にもずっと引っかかりを覚えてきました。私は、何かができるから価値があるのでもなければ、何かができないから価値がないのでもないのです。そもそも「価値」ってなんですか? 私の父の言う「社会的貢献」のことですか? なにかが「できる」ことですか? なにかの「役に立つ」ことですか?
私は、できることとできないことの差が激しく、そしてできないことのほうが多く、できないことのほうが目立つ人間です。「自分はできない」という刷り込みも人一倍強いです。それでも、自分は神様の失敗作ではないと断言できるようになった。私自身はなにも変わっていないのに、です。小学校のころは、なにをやらせてもダメ男くん。中学から急に勉強ができるようになって怒られなくなった。高校もいいところに行き、東大に行き、大学院に行き、修士論文もいいものを書き、博士課程で二次障害を患って、博士論文が書けなくなって以来20年、崖を転がり落ちるような人生を歩んでいるだけです。その間、私はなにも変わっていません。周囲の評価が激変しただけです。
私も数学者になれていれば「社会的貢献度」の高い人間になれていた可能性があります。いまや親のすねをかじるだけのやっかい者。それでも生きている私は、我ながらすごいと思います。雷が鳴れば自分に落ちて死なないものかしら、車が走ればひかれて死なないものかしらと思うほど、生きるのがつらいのですが、我ながらよく生きている。だから、「君はできないからダメだ」と言われるのが耐えられないほどつらいのと同時に、逆に「あなたはできるから大丈夫だよ」と言ってくる人も信用できないのです。
神様は、ひとを「できる・できない」で見ていません。私は神様の傑作なのです。それは、なにかができるからではなく、なにかができないからでもありません。使えるからでもなければ、使えないからでもありません。なにかの役に立つからでもなければ、役に立たないからでもありません。とにかく私は、神様から命をいただいた、生きているだけで価値のある人間なのです。
先日、私の相談に乗ってくれたハローワークの職員は、私が「できる」人間だと気づいてから急に親身になってくれたわけではありません。その前から、十分に親身だった。あの人はハローワークの障害者求人の担当として、そういういろいろな人を見てこられたのだろうと思います。ただ、私の能力から見て、軽作業は向いていないということと、その才能を生かした再就職はできないものか、と必死で長時間、一緒に考えてくれたのです。あの人は、人間というものは価値ではないとわかっている人だったのでしょう。
いまや私は46歳、無職、キャリアなしの障害者。私の先輩、同輩、後輩は、例えば東北大学教授であったり、名門大学の教授や准教授になっています。彼らは「社会的貢献」が高いから価値があるのか。数学の論文を読んで、本当にその「価値」を理解する人はごく一部であるはずで、多くの人は、その人が名門大学の教授であるというだけで尊敬するのです。論文を読んで判断しているのではありません。
多くの人が見たら、私は失敗者の人生でしょうし、自分でもそう思いますが、私は神様の傑作です。これをお読みくださっているあなたも、まぎれもない神様の傑作に違いありません。
腹ぺこ 発達障害の当事者。偶然に偶然が重なってプロテスタント教会で洗礼を受ける。東京大学大学院博士課程単位取得退学。クラシック音楽オタク。好きな言葉は「見ないで信じる者は幸いである」。
ずっと自分のせいにされてきた 【発達障害クリスチャンのつぶやき】