あるキリスト教系私立校で行われている礼拝の実態 【発達障害クリスチャンのつぶやき】

学生時代、宗教系の私立学校に通っておられたかたはけっこうおいでになるでしょうね。今も通っておられる現役の学生さんもおいでになるでしょう。私はかつて中高の教員でした。そこはキリスト教系の私学でした。私自身は、小、中、高、大、院と公立でしたので、宗教の私学で教育を受けた経験はありません。教えたことがあるのもその学校だけですので、ほかの宗教の私学を知らないのですが、勤め始めて間もなく、以下のようなことがありました。

学校では、礼拝があります。教会の礼拝を知っていた(逆に言うと教会の礼拝しか知らない)私にとって、学校の礼拝は、なかなかカルチャーショックでした。たとえば、前へ出て話す教員が、まず聖書の話などをすることはなく、ほとんど「もっと勉強をしろ」みたいな「お説教」であったこともそのひとつですし、礼拝は実は前座で、礼拝後にコワモテの先生が出てきて、生活指導や進路指導の話をするという、そっちのほうがメインなこともそのひとつですが、もっと大きなカルチャーショックがあります。

それは、私は担任として(ボーっと)礼拝を聞いていてはいけないのであって、常に生徒のほうを見て、寝ている生徒を起こし、ほかのことをしたり私語をしている生徒を注意しなければならないことでした。ボーっと礼拝を聞いていたら先輩の先生に叱られました。もっと生徒のほうを見ろ、と。しかし、教師をやめてしばらくして、あのとき私は、やはり礼拝の話を聞くべきであったと、今さらですが思います。

学校の先生って、すごく偉そうにしていますけれど、じつは、神様のほうがもっと偉いのです。「偉い」という言い方がおかしければ、神様、仏様の前では、教師も生徒も、みんな、一個の人間に過ぎないという、おそらくそのことが宗教の学校の大切なところではないかと思えるのです。教師でなくなった今は。

もちろん、生徒にとって礼拝とはつまらないものです(ついでに言うと、先生にとっても本音ではやりたくないものかもしれません。その学校は、コロナが流行ってからすぐ礼拝をやめたそうです。不要不急ということでしょう)。とにかく、礼拝は退屈です。したがって居眠りする生徒は起こし、私語する生徒は黙らせるのです。しかし、本当は教師も神様、仏様の前では、もっと謙虚になるべきだよなあ。

先日、あるお寺に行って改めて思ったわけです。神様、仏様には「なんでこうなるんだ、この野郎」と祈ってもいいと思っています。思いを正直に出すのはいいことですよね。どうせ、こちらの思っていることは神様、仏様にはぜんぶバレていますし。バレている上で、ゆるしてもらえていますし。仏様の前で、自分の存在の小ささを改めて感じて、じつはそういうことを学ぶのが宗教の私学の本質だったのではないかと思ったわけです。校長よりも、理事長よりも、神様のほうが「偉い」し、それに、どんな有名人とでも友だちだったらすごいと思いますが、超有名人のイエス・キリストは「友」ですからね。いつくしみ深き友なるイエス。

こんなことが言っていられるのも、もう教師じゃないからです。実際に今も教員をしていたら、こんなまとも過ぎることは言っていられなかった。ですから、もしみなさんが宗教系私学に通う学生さんでしたら、どんな偉そうにしている先生よりも、本当は神様や仏様のほうがずっと偉いと思っていただきたいですし、先生には自分たちよりも神様や仏様のほうがずっと上だということを思い出していただきたいです。それが本当の宗教の学校というものだと思いますよ!

腹ぺこ 発達障害の当事者。偶然に偶然が重なってプロテスタント教会で洗礼を受ける。東京大学大学院博士課程単位取得退学。クラシック音楽オタク。好きな言葉は「見ないで信じる者は幸いである」。

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