クイア・レッスン -私たちがLGBTQから学べること- (エメル出版)
「はあ……」とため息をついてノートパソコンを閉じた。
エラい先生がLGBT[1]や同性婚について語るらしい、という情報を聞きつけて、「福音主義」を冠したとある研究会にズーム参加した、その直後のため息だ。
そこでは「まじめなLGBTを教会は受け入れるべき」というようなことが提案されていて、極めてまじめに「ふまじめなゲイ」として生きている自分からしたら「ウッセェ! 余計なお世話だ!」と啖呵を切りたくなる気持ちもなくはないが、このようなことには慣れっこなので、もちろんそんなことはしない。「神のみ心にかなった異性愛者」と「神のみ心に背く同性愛者」を二元論的に語るのが当たり前の福音派キリスト教界隈において、「まじめな『LGBT』(同性愛者)[2]」をグレーな存在として想定し、既存の教会や婚姻制度に包摂しようとすること自体、画期的な試みでもあるのだ。
ただ、その議論の過程で、異性愛や異性間の婚姻を「神のみ心」とみなして道徳的ヒエラルキーの頂上に鎮座させ、「まじめなLGBT」をその下に位置付け、「ふまじめなLGBT」はそのさらにさらに下に追いやって排除するようなランク付けは不問に付され、「まじめ/ふまじめ」を区別する彼らの規範自体に批判的な視座が向けられることはない。うん。いつものことだから、大丈夫。
すでにここまで読んで疑念を抱いている方もおられるだろうが、LGBT内の差異についての扱いは極めて粗雑で、トランスジェンダーについては申し訳程度、バイセクシュアルについては言及がなかった。LGBTは同性愛者とほとんど同義にされ、「LGBT」が生身の人間を指し示し、その人々の生存と連帯のツールとして機能してきた歴史と現実は忘却され、血の通わない記号の一つとして使用されている感が否めない。うん。既視感。
講演者のエラい先生は言わずもがな、その場で意見を表明するのはほとんど年長シスジェンダー・ヘテロセクシュアル男性[3]で、そのような場で「性的少数者は受け入れられるべきか」が議論されていることのグロさに自覚的な人は少ないように見える[4]。全然、平気〜。
「はあ……」
いくらこういった発言や場面が日常茶飯事だとしても、「いつものことだから気にしてもしょうがない」と自分に言い聞かせても、積み重なっていくと、心の水分は奪われて、自分の全存在が干上がってしまったような気分になることがある。
『クイア・レッスン』(コディー・サンダース著)は、そんなふうに渇き切った心を潤してひと休みできるオアシスのような本だ(クイアというのは、元々は性的少数者たちへの侮蔑語として「変態」「奇妙」などの意味で用いられてきた言葉。その言葉を一部の性的少数者たちが転覆的に意味付けし直し、連帯と抵抗のために用いてきた[5])。
この本がオアシスなのは、初学者でも理解できる平易な言葉で語り(誤植が多く、翻訳に疑念を抱く部分はありこそすれ)、性的少数者の日常やキリスト教界の現状への心配りに尽力しているからだけではない。
ジェンダー・セクシュアリティ研究の蓄積に最低限の敬意を払い、クィア理論が培ってきた「ジェンダーやセックス、恋愛・婚姻・家族にまつわる『当たり前』を問う姿勢」を継承し、性的少数者の政治運動とコミュニティ形成の歴史を紹介し、性的少数者コミュニティ内部に存在する差異や緊張関係にきちんと触れているからだけでもない。
『クイア・レッスン』のオアシスたるゆえんは、「キリスト教は同性愛を受け入れられるか」とか「LGBTとして生きることは罪か、それとも選択の自由か」とか「教会はまじめなLGBTを受け入れるべきなのではないか」のような退屈で使い古された質問を棄てて、「最も小さい者」とされているクイアたちと出会い、クイアたちに聴き、クイアたちからレッスンを受けるための新しい質問を立てるべきだ、というメッセージを中心に据えているところにある。
クイア・レッスンの学び直しは、教会にとっては不都合かもしれない。そのレッスンを通じて自分の立場を変えるように招かれるからだ。懐疑的なアプローチでは、質問をすることを許されるのは特権をもち、共同体の包摂性を決める立場にある権力を持った人々(すなわち異性愛者やジェンダー・アイデンティティに違和感のない人)だけだ。それらの人々は共同体の中心位置から、周縁に居るクイアな人々について、懐疑的な態度で生活や愛情についての尋問をすることが許されている。そして会話のルールを決め、どのような質問をするかを決め、場合によっては「どのような答えならば聞き入れるか」ということさえも決めてしまう。そうではなく、本来私たちが招かれているのは「低くされたものから学び直す」プロセスだ。(『クイア・レッスン』序章より)
優越性を認められ、「神のみ心」にかなっているらしい「おっさんたち[6]」が、劣位に置かれた性的少数者たちを神の代わりに品定めするような構造の中から投げかけられる質問には、もううんざりだ。性的少数者が日々思っていることや経験していることを語り始めるための質問。LGBT内部の差異、そしてLGBTに含み入れられていない差異に丁寧に、けれどもダイナミックに分け入っていくような質問[7]。そして、その過程で新たな地平が開き、自分や教会が根底からつくり変えられるようなドキドキする質問を、一緒に問いかけていこうではないか!
そのような招待状を『クイア・レッスン』はあなたに差し出している。一緒にオアシスの水を飲んでいきませんか? 劇薬かも(笑)。
[1] 「レズビアン・ゲイ・バイセクシュアル・トランスジェンダー」の頭文字を取った言葉で、性的少数者全般の総称として用いられることもある。その言葉が取りこぼしたり、不可視化したりするマイノリティの存在が指摘され、「LGBTQ+」や「LGBTQIA+」などが使用されることが増えてきている。
[2] 講演の題名には「LGBT」という語が銘打たれていたものの、講義の大半において「LGBT」を「同性愛者」の同義語として使用しているように思われた。
[3] シスジェンダーは出生時に割り当てられた性別(ジェンダー)と、自分で認識したり、表現したりしているジェンダー・アイデンティティが合致している人を指す、トランスジェンダーの対照となる語。ヘテロセクシュアルは異性愛者。
[4] 大学教員をしているらしい方から「自分の大学の現役学生ほぼ全員がアンケートに『LGBTは受け入れられて当然』と回答したけど、なんでもありではないことは学生たちにわかってほしい」というような主旨の発言もあった。VIVA、〇〇大学の学生たち。先生は「LGBTを受け入れること」と「なんでもありの無道徳主義」を同一視してしまう自分自身の世界観にこそ目を向けて、学生さんから学んでほしい。
[5] サンダースは「クイア」を、政治的連帯と抵抗の言葉としても、性的少数者を包括する言葉としても紹介している。このことについては次の論稿で詳しく見て行きたい。
[6] いわゆる象徴的イメージとしての「おっさんたち」であって、生身のおっさん全員を包括するものではない。
[7] サンダースが自らのこのような提案を『クイア・レッスン』でどれだけ体現できているか、には議論の余地があると思う。このことについては三本目の論稿で詳しく見て行きたい。