不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます。(ローマの信徒への手紙4章5節)
今日の聖句を語ったパウロは、その真理を実証するために、旧約聖書に出てくるアブラハムとダビデの二人について語る。
アブラハムは「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい」(創世記12・1)という神の声を聞いた時、神を信じて、行き先も知らずに旅立った。多くの失敗をしたが、彼は弱い自分を引っさげて、神への信仰に生きた。その信仰によって、アブラハムは神に義と認められた。
ダビデは家来であるウリヤの妻バテシバと不倫を犯し、その罪を隠蔽(いんぺい)するために、ウリヤを戦場に送って死なせた。神は預言者をダビデに遣わして、「あなたはわたしを侮ったのだ」と罪を指摘した時、彼は「わたしは主に罪を犯しました」(サムエル記下12・13)と告白し、神に赦(ゆる)しを願った。その信仰によって、ダビデは神に義とされた。
人間は自分の行動を神に対して責任を負わなければならない。罪は、神に対して責任を果たさなかったという意味で「負債」である。神にその返済を求められるならば、だれも支払うことはできない。「魂を贖(あがな)う値は高く、とこしえに、払い終えることはない」(詩編49・9)。罪を償えない罪人に代わって、神の御子イエス・キリストがその命をもって代価を支払ったのである。十字架はそのために払われた神の大いなる痛みである。このことを深く心に留めて、神を信じ、罪の赦しを願うならば、神は「不信心な者を義と」してくださるのである。「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい」(Iコリント6・20)。