【宗教リテラシー向上委員会】 除夜の鐘のライブ配信が変えた体質 池口龍法

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昨年末の大晦日(おおみそか)。私は誰一人参拝客のいない京都・知恩院の大鐘楼で、パソコンやカメラなどの機材に囲まれていた。知恩院の除夜の鐘は年末年始の風物詩の一つで、毎年3万人の人出があり、何年かに1度はNHKの「ゆく年くる年」でも全国に生中継される。コロナ禍の昨年は参拝をお断りすることが早くから決まったが、厳しい1年だったからこそ鐘の音を届けたいとの思いは捨てきれず、せめてライブ配信しようと決まった。配信慣れしている私に、担当者として白羽の矢が立てられた。

現場の感覚としては、毎年の人出の1割(つまり3千人)でも見てくれたら、無観客という苦渋の選択をしたせめてものお詫びができるだろうという程度だった。しかし、ふたを開けてみると、同時視聴者数はピーク時で1万人を超え、再生回数は一晩で10万回に達した。海外からも多数のお参りがあり、さまざまな通貨でカード決済された「お賽銭」が飛び交った。これはもう、仏事の質を転換させた大事件だった。一昨年までは、NHKの中継がある年を除けば、京都近郊の人のためのローカルな仏事だった。それが昨年は世界中に開かれた仏事になった。ドイツ語で書き込まれた「大晦日に花火をあげている私たちより、日本の伝統の方がよほど素晴らしい」というコメントなど、伝統仏事の持つ力が動画によって大きく花開いたことを端的に示していた。

わずか1年前を思えば、つくづく隔世の感がある。コロナ以前には、お寺とネット社会は水と油のように混ざりきらないという空気感があった。老齢になって足腰が弱っても、無理を押してお寺に行くぐらいの思いがあってこそ、法要の時間は厳粛になるし、ご先祖への供養の思いは深くなる。安易にオンライン配信など始めたら、儀礼が陳腐なものになってしまう。そんな意見をよく聞いた。

この世のすべては心の表れに過ぎないと説くのが仏教だから、ITにしてもうまく利用できるか逆に悪用してしまうかは、私たちの心ひとつだと受け止めるべきだと思う。ネット社会のデメリットを躍起になって探すよりは、うまく使いこなすために心を尽くすのが、仏教徒の本来のありようである。私はかねてから、「災害時に避難所となることもあるのだから、本堂に無線LANぐらい飛ばしておくのが住職の責任だ」と主張している。周りのお寺に対しても、「本堂までLAN配線をしておくべきだ」と薦めてきた。しかし、「本堂はLAN配線を想定して建てられていない」「ご年配のお檀家さんはパソコンもスマホも使わない」などと失笑を買うのみだった。

コロナ禍になって状況は一変した。会議も飲み会も帰省もオンラインが推奨された。しかし、ほとんどのお寺では檀家さんとリアルで接することに固執してきたから、ライブ配信しようにも機材の持ち合わせがなく、また知識もなかった。逆に、お寺のIT化を容赦なく進めていた私に対しては、「先見の明があった」と評価がコロッと変わった。とりわけ除夜の鐘のライブ配信の成功体験はインパクトがあったようである。ITと距離を置いてきたご年配のお坊さんは嘘のように静かになり、若手僧侶からは毎日のようにオンライン仏事についての相談を受けるようになった。

あまりの手のひら返しに拍子抜けするが、それだけ若手僧侶は旧態依然のお寺の中でくすぶり続けていたのだろう。大きな地殻変動である。この機を逃さず現代のネット社会にしっかりと着地し、私たちが誇る伝統の粋を世界に伝えていきたい。

池口龍法(浄土宗龍岸寺住職)
いけぐち・りゅうほう 1980年、兵庫県生まれ。京都大学大学院中退後、知恩院に奉職。2009年に超宗派の若手僧侶を中心に「フリースタイルな僧侶たち」を発足させ代表に就任、フリーマガジンの発行などに取り組む(~15年3月)。著書に『お寺に行こう! 坊主が選んだ「寺」の処方箋』(講談社)/趣味:クラシック音楽

【宗教リテラシー向上委員会】 失われた「ひとづくり」の回復を 池口龍法 2021年1月21日

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