今年はコロナ禍の影響で大学、神学校の授業も様変わりした。新年度、緊急事態宣言の発令を受けて上半期はほぼオンラインに移行。とりわけ全寮制の学校は、細部にわたる感染対策に追われることになった。秋からは対面での授業も再開したものの、留学生を含め一部の学生は、まだ元通りの学習環境を取り戻せていない。新型ウイルスの全容も分からないまま、今も手探り状態が続く中、牧師の養成機関はどんな葛藤を抱え、どう克服しようとしているのか。集まった教師たちは、教派的背景、地域、規模とも三者三様。これからの「新しい神学教育」と各校が描く将来像について語り合った。
【参加者】
・齋藤五十三(東京基督教大学神学部助教)
・鎌野直人(関西聖書神学校校長)
・濱野道雄(西南学院大学神学部教授)
これまで以上の連携が生まれる可能性
〝聖餐式はコミュニティを形成するものと再確認〟
――コロナ禍を経て気づかされたことについて。
鎌野 私たちの神学校は祈ることを重んじる敬虔派、きよめ派の神学校です。祈祷会もリモートの時は週に1回集まっていただけでした。それに加えて、学生だけでも週に1回は祈祷会を続けていました。神学校に戻ってきてからは、いつものように毎朝の祈祷会と、週に1回の定例祈祷会を継続しています。
さまざまなことを祈るわけですが、「嘆く」ということを、祈りにおいてもっと大事にしなければいけないと実感しました。祈りと言うと、単なる希望や願望を述べがちです。しかしむしろ、自分が取り組んでいる、向き合っている、けれどもその通りにならない、思ったようにいかないという現実を、神の前にひけらかすことも祈りです。緊急事態宣言下で、本当にしたくてもできないことばかりです。もう少し神の前で嘆かないのか、本音を神の前に晒(さら)さないのか、と思っていました。最近は、時々学生の中からそのような祈りが聞こえてくるようになりました。祈りを深めるということにおいて、コロナ禍は大事な経験だったと強く感じています。
もう一つは、遠隔にいる人でも学びができるようにしてほしいという要望を、以前からいただいていました。できなくはなかったでしょうが、きっかけがありませんでした。ところが、今回のコロナ禍は、Zoomという言葉を知らない人がいなくなったぐらい、Web会議が普通になってしまいました。学びたいと願う方の多くは地方にいます。牧師は忙しくて近くにいても聴講する時間がありません。そこで、Zoomを活用して、遠隔地からの聴講を可能にしようということにしました。新しい校舎では、設計の段階からどこの部屋でもWi-Fiがつながり、必要ならばほとんどの教室で有線接続ができるよう整備していましたので、簡単に実行できるようになりました。実際、この秋から受講する遠方の牧師もいます。
――授業以外でもオンラインが役立つ可能性もあるということですね。
濱野 例えば年に1回の総会です。声の大きい人の意見だけが通ってないか、牧師の声ばかり通っていないかといった課題をもう一度見直そうという委員会が、まさにZoomでの開催にすることで誰でも参加できるようになりました。これまでは、時間的余裕があって、首都圏まで来られる方に限られていたのが、空いた時間に誰でも聞くことができる。コロナ禍の時期だからこそ逆に活発に活動している委員会もあります。
――関西聖書神学校のように、授業を牧師たちにも開いていくという可能性もありますか?
濱野 聴講の制度は以前からあったのですが、鎌野先生がおっしゃったように、実際のところ遠方で忙しいという障壁がありました。今後はもしかしたら開けるかもしれません。すでに講演会やチャペル礼拝には、遠くにお住まいの方、あるいは現役学生の出身教会の人たちが、説教をのぞきに来たりしています。神学生にとっては余計な緊張を強いられることになるかもしれませんが、これまでにない広がりは生まれましたね。海外からのゲストを気楽に頼んだりできるのも大きな利点です。
齋藤 東京基督教大学(TCU)の場合、春学期は初めての試みということで聴講はできなかったのですが、8月末から始まった秋学期は、聴講を外部にもオープンにしています。教職、信徒を問わずさまざまな方が参加できるようになり、聴講の方がずいぶん増えています。
今回、私たちが学んだ経験を緊急避難的なものに留めず、今後さらに広げていくことを願っています。TCUは留学生も一定数おり、コロナ禍の影響で母国に帰らざるを得なかった学生や、逆に母国に帰ったらしばらく戻って来られなくなるということで、日本に留まった学生もいます。英語で提供している授業などは、各地の時差の分布から世界5カ所ぐらいの地域にまたがって行われているクラスもあるんです。すでにそういう変化が起こりつつあります。
全国に学びの場を提供
――今後オンラインが当たり前になることで、神学教育機関としてどう変わっていくと考えていますか?
鎌野 ハイブリッドのような形でできることを増やしていきたいとは思っています。来年の4月からは、信徒伝道者コースを始めようとしています。当初は新しくできた校舎に来ていただいてという前提でしたが、ハイブリッドで行う方向で進めています。最初からオンラインとオフラインの併用を考えて授業を組もうと考えています。
新校舎を建てる時も、なぜ神戸に作らなければいけないのか、例えば東北に作ったらどうなるか……という話もありました。地方でのセミナーも行ってはいますが、今後は東北に限らず日本全国どこにいる人にも学びの場を提供するというビジョンを鮮明に出していきたいと思っています。結果的にそれが、働き人たちをサポートすることにもつながります。
――教会もそうですが、オンラインが普及することで、集まらなくてもできるという気付きによりもう建物は要らないのではないかという議論にもなり得るでしょうか。
鎌野 そういう側面もあると思いますが、学校としてはリトリートセンターとして働くという発想も常に必要だろうと思っています。つまり、オンラインでいろいろなことは学べるけれど、あえて教会の現場から離れるのです。新校舎の寮でも牧師のリトリートに対応できます。ここでも、リモートと現場という両方を活用し、ハイブリッドで展開していくことが必要ではないかと思います。また、実際に人が集まるコミュニティが必要であるとともに、あえて退修する、リトリートすることも必要です。あと、Zoomの会議でずっと座っていてもしんどいですし、オンラインだけだと体が持ちません。
齋藤 学生がコロナ禍で失ったものの中で、一番大事だったと実感しているのは寮生活です。寮生活が自分にとって人格形成の本質的な部分だったというフィードバックを学生から受けました。教室での学びより寮の中での関わりが重要だったというのは、教員にとってはある意味ショックなのですが……(笑)。
寮の人数から言っても、全員が寮生活に戻ると確実に密ができてしまうので、学生の状況に合わせて安全面を加味しながら、可能な範囲で再開しました。学生が交わりを楽しむ中で学ぶ姿を見て、私たちも本当に良かったと思っています。でも、まだ戻ってこられない学生の方がはるかに多いので、彼らをどうフォローするかというのは今の課題です。
――TCUでは、みんなで食卓を囲むという雰囲気も重視されていたと思いますが……。
齋藤 はい。ちょうど30周年に合わせて、食堂の改修のために寄付金を募っていました。春学期は幸い学生がいませんでしたので、この間に食堂の改修を始めました。食べるためだけに集まるのではなく、交わりの空間になるといいなというコンセプトで設計図を引いてましたので、ある意味、感染対策と合致した部分がありました。非常にゆったりできる、仮に食べながらの会話でも危険な状況にならないよう、さまざまな工夫をしながら、秋学期に帰寮する学生を迎えました。本当に神の配剤というか、まさに不幸中の幸いでした。
オンライン礼拝はあり?
――今後、おそらく教会でも課題になると思いますが、オンライン礼拝に対する受け止めはいかがでしょうか?
鎌野 基本的には礼拝も対面でやるのが大前提です。神学的にも、感情的にも、このことを強く願っています。私が牧会している姫路の教会は10人程度の出席なので、通常通りの礼拝を続けていますが、礼拝後の交わりの時間にお茶を出すのをやめました。一時、出席者は減ったのですが、みんなが再び集まれるようになってくると、お茶は出さないのですが、礼拝後すぐには帰らないのです。やっぱり会って話をするという機会が重要だと感じているのです。それと共に、インターネットで礼拝を同時配信することで今まで届かなかった方に届くようになった恵みも感じています。ご高齢でさまざまな事情で礼拝堂に来られなかった方が、同時配信を始めてから、スマホでYouTubeを通して毎週礼拝にあずかることができています。
私が属する日本イエス・キリスト教団に目を向けると、小さな教会が多く、牧師も少ない東北教区の牧師たちが、コロナ禍の中、毎週日曜日の午後にZoomでの合同礼拝を始めました。そして、地域の枠を取り払って、どこからでも参加できる礼拝とし、日本全国の牧師がそこで説教をし、その後、交わりをしています。その結果、普段ならなかなか会えない人たちが毎週のように会うことができるようになっています。日本全体の教会で、そうしたハイブリッド化が起こることにより、これまで以上の連携が生まれてくるのかもしれません。
齋藤 私も今、それを積極的に捉えるべきことなのか、あるいはその反対なのかということを学び続けている段階です。今後の高齢化社会を考えると、オンラインでの礼拝というのは、礼拝者としていかに人生を全うしていくかという意味で捉えることもできる霊的なツールを提供してくれたと思います。学生たちも教会の実習を通して、そういうことを実地でも学ぶ経験をしていると思っています。
私自身が非常に印象深いこととして覚えているのは、牧師として奉仕している卒業生から教会の状況を聞く中で、「聖餐式の意味とは?」という問いを切実に感じました。やはり多くの教会が聖餐式を中止していたと思うのですが、教会の交わりが痛みを覚えているのを感じたと言っていました。やはり聖餐式はコミュニティを形成していくものだということを再確認したと。7月ぐらいに再開したようで、その時の感動はたいへんなものだったそうです。
求められる将来像
――コロナ禍以前から、牧師の志願者がなかなか集まらない、今後牧師をどう育てていくべきかという重い課題がありました。神学校や神学部の将来像についてお考えをお聞かせください。
濱野 この2、3年で入学者が一気に減りました。今年は幸い受験者がゼロではありませんでしたが、ゼロの年が2年続きました。おそらく、これからの日本の教会は二分化していくと思っています。今までの教会の形をずっと続けていく、ある程度の規模を有する教会と、地域の中へ飛び込んでいくような形の教会。その二つの間でどう連携を作るかが問題です。双方が教会を基盤に、しかしそれよりも広い神の国の広がりをどう見ていくのか。
今年は、さまざまな教派、教会から学生が来てくれて、人文学コースの半分はクリスチャンでした。神学コースは人気がないのに、人文学コースがなぜか人気で(笑)。長く、牧師になる人を育てるために神学校を運営してきましたが、神学生が途絶えることはないと思います。細くても水増しせず、手を抜かずに続けながら、新しい形を求めていくことが必要かなと思います。
あとは、やはりエキュメニカルな協力体制ですね。教派神学校が一つの教派だけで存立するということが難しくなってくると、必然的にエキュメニカルな協力関係が開かれる。一緒に神学生たちを養成して、一緒に学んでもらうというようなことが今まで以上に必要になっていくと思います。そこで新しい刺激やいい出会いが起こってくる可能性が実はある、という発見がこの夏できました。
鎌野 日本福音連盟というきよめ派の教派の交わりがあります。本校を含めて、そこに関わりのある神学校が協力して、2018年からリトリートを3年に1回、合同で開催しています。次回は2021年に開かれ、現在の状況を考えて、Zoomで行う予定です。
関西聖書神学校で教鞭をとる教師陣を見ると、さまざまな教派の方がおられます。イムマヌエル綜合伝道団や基督兄弟団の先生が教えてくださっています。以前にはホーリネス教団の方もおられました。また、いわゆる福音主義に立つ教派の講師もおられます。実は、教派間の交わりは教授陣の中でもうすでに始まっています。これはきよめ派の神学校の多くでもそうです。このような教派間の交わりが、どのように進んでいくのかはわかりません。しかし、神学教育においては、教派協力が今後、より深まっていくだろうと思います。
神学教育で大事なことの一つが学生数です。学生が10人しかいなかったら10人程度の交わりしかできません。人格形成ということを考えると、30人、40人いる方が断然良いわけです。日本にあるきよめ派の神学校の生徒全員を合わせたら70人くらいになります。2018年のリトリートではこれくらいの学生が一堂に会して、実によい時となりました。
それぞれの教派の伝統を重んじつつも、他の神学校と協力していくことが今後の神学校の進め方になると思います。
なぜ神学校に来る人が少なくなったのか。さまざまな理由がありますが、その一つは、神学校や神学生のプレゼンスが教会においてどんどん小さくなってきていることではないでしょうか。人数が減ったので、プレゼンスがより小さくなって、結果的に神学校に行く人が減っていく。今できる限りのことを通して、教会の中での神学校や神学生のプレゼンスをもう少し大きくしていくことが、今後の神学教育のためにも、入学生が実際に起こってくることにも必要ではないかと思います。
齋藤 TCUは日本福音同盟という大きな交わりの中で、「福音派」の教会が主に支援団体となり、30年間歩んできました。この数年の傾向として、いわゆる「福音派」と呼ばれる背景から入学してくる人たちよりも、もっと多様なカテゴリーの教会から入学してくる人たちが増えています。全体としては学生数にそれほど変動はないのですが、割合として多様な背景から来る人たちが増えています。そうした傾向に対する柔軟な対応、カリキュラムも含めた受け入れ体制の強化が求められていると感じています。日本語よりも英語、あるいは第一の学習言語が日本語でも英語でもない学生も出てきています。
もう一つ感じている変化は、高齢化社会の影響なのか、人間が成人して大人になっていくのに、以前よりも時間がかかる時代になってしまったということです。特にTCUはさまざまな年齢の方が入ってきますが、3年ないし4年、5年で完了することを想定しない教育の必要性を感じます。もっと自由に、揺らいでいる若い人たちに、きちんと寄り添って育てていくという、教育する側の忍耐力、フレキシビリティーが非常に求められています。そういう懐の深さがないと、この国の社会の現状に合わない学校になってしまうということを痛感しています。
牧会の現場に出ても同じで、さまざまな難しい社会状況の中で、牧会者自身が揺らぐ状況もあります。送り出したら終わりではなく、現場の牧師、教職者を支えていく神学教育のあり方を持たないと、やはり日本の教会、世界のキリスト教会を支え、奉仕し続けることはできないのではないかと感じています。
鎌野 きよめ派の神学校には、「即座の従順」という、言われたら「はい」と問答無用で従いましょうという体育会系の伝統があります。体を動かして従うのです。このことの重要性を重々承知した上で、自分で考え、どう従っていくのが本当に従うということなのか、逆に、なぜ従うのか、ひょっとしたら間違っているかもしれない、その時はどうするのか、という批判的思考を並行して学んでいくということが、とても重要だと痛切に感じています。
現代の若い人たちはとても優しく、人の心を気遣うのは得意で、言われたことはちゃんとします。けれども、周りに流されてしまいやすく、クリティカルに考えることができないのです。従順を学ばせることも必要ですが、その上で、しっかりと自分で考えて、時には「先生、間違っているんじゃないですか」ということを言えるような者に育てる教育が今後、もっと必要かなと思います。
それから、10年、フルタイムで教師をやってきて感じているのが世界的視野の必要性です。日本の伝道、宣教を考える上でも、例えばもっと海外の出来事を知るとか、社会の問題として逃れられないさまざまな問題に対する広い視野を身に付けさせるということも重要だと感じています。
濱野 お二人の先生方がおっしゃったことを私も大切に思っています。具体的なカリキュラムとして今年から始めたことの一つは、ハラスメントに関する授業です。卒業生たちを見ていても、そこにつまずくことがあるし、逆に被害にあったりすることもある。私がアメリカの神学校にいた時、ほぼ必修に近い形でハラスメントについての授業をみんなが受けて、とても勉強になったんです。専門家の協力をいただきながら、今年から開講してみました。かなりのスピードで社会の感覚が変わっている中、今まで良い牧師だと言われていた熱心な牧師像に、もう終わりが来ています。もちろんこれはテクニックの話というより、神が私たちにどういう命を授けてくださったのかということを一番の基本にしながら、具体的なものの考え方を学んでいくことが必要です。
あとはビジョンですね。鎌野先生がおっしゃったように、もっと広い視野を持つこと。日本全体を見ていても、私だけ、私たちだけ、ここだけになっている。私たちは聖書に立って、創造から始まり終末に向かう大きな救いの歴史、世界観、宇宙観を持っているわけですから、その中で私たちが生きている地域をどうしていこうとするのか。そんなビジョンが持ちにくい社会になっていると思います。声を上げてもつぶされるだけ、ビジョンを持ったって意味はない、しょうがないと思えるような中で、しかし我々は聖書に立ってビジョンを持ち続ける。それを教会のベースにして神の国を目指して、生きていく。そういう感覚を一緒に持てたらいいね、ということを神学生たちとはよく話しています。
若い人も両極化しています。すごく主体的に考えている人と、「選挙に行っても別に何も変わらない」と諦めている人。どんどん諦めさせようとしている時代ですから、私たちは希望を持てるということを語り続けることが、牧師の仕事でもあるし、キリスト者として大学の中で語り続けたいことでもあります。
――ありがとうございました。(司会=本紙・松谷信司)