聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか。(ルカによる福音書24章32節)
主イエスが死んで三日目に、二人の男がエルサレムからエマオに向かう道を歩いていた。イスラエルを解放してくださる方と望みをかけて従った主イエスが、十字架にかけられて死んでしまい、望みを断たれて意気消沈して歩く弟子たちに、復活の主が近づいて来た。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。主は彼らに語りかけ、一緒に歩き、ご自分について書かれた聖書を説き明かした。
夕暮れが差し迫った道を、エマオに向う二人の弟子に寄り添って、聖書を説き明かしながら、一緒に歩かれる主イエス。この印象的な光景を多くのキリスト教画家たちが絵にしているが、これは今も私たちの場所で起こる光景である。つらい場所から逃げ出そうとする私たちに、復活の主は近づいて来て、聖書を通して語りかけてくださる。私たちは「物分かりが悪く、心が鈍」(25節)いために、すぐにそのことが分からない。しかし、聖霊の主が聖書を解き明かしてくださる時、私たちは共に歩まれる主イエスを知る信仰を与えられ、心を燃やされ、生きる力をいただく。
「われわれはエマオの旅人たちのように、われわれの心を燃え上がらせるキリストを求めずにはいられない」(『続西方の人』)と言った芥川龍之介は自殺した。なぜか。彼もまた、主イエスの教えに感動しつつも、死んだ過去の偉人の一人として、主イエスを知ろうとしたからである。聖書を知識として読んだが、祈って主イエスを求めなかった。聖書を読む時、「主よ、語ってください」と謙虚に祈って、耳を澄ますなら、復活の主イエスが心を燃え上がらせてくださる。