わたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。(コリントの信徒への手紙二 4章16節)
今日の聖句にある「外なる人」は、人間の体を指す。人間の体はその肉体も精神も衰えてゆき、やがて死ぬものである。「内なる人」とは、神がキリストによって人間の内に新しく創造するものである。それは、キリストの血によって贖(あがな)われた、神を父と呼ぶ神の子である。「外なる人」は衰えてゆくが、父なる神との交わりを持つ「内なる人」は日々新たにされる。病気や老いなどによって「外なる人」が衰えてゆけばゆくほど、「内なる人」は輝くのである。神との交わりが深められてゆくのである。この神との交わりは死によって終わるものではなく、永遠である。「外なる人」が滅びても、「内なる人」には「天にある永遠の住みか」(5・1)が備えられている。
その保証はどこにあるのか。「神は、その保証として”霊”を与えてくださった」(5・5)。死後の「天の住みか」は、私たちの願望でも幻想でもない。私たちを信仰へと導いてくださった聖霊によって保証されている。私たちに神を「父よ」と呼ばせ、神の子である確信を与えてくださったのは聖霊である(ローマ8・15参照)。それゆえに、「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです」(18節)。過ぎ去ってゆくものに捉われないで、見えない神に目を注いで生きるのである。「見えないものに目を注ぎます」と決意をこめて言っているように、信仰は意思的である。信仰を情的に捉えてはならない。神を仰ぐ”信仰”と、心持ちに重点を置く”信心”とは違うのである。