Q.なぜ教会の集会は拘束時間が長いのでしょうか?(20代・女性)
ミサの奉仕をしてくれる子どもたちから、時々聞かれます。
「今日のミサは長いの?」
そう言った子どもたちも、ミサが終われば、たいていの場合は「今日のミサは早く終わったね」と言います。何かの所要時間が長かったり、短かったりするのは、多分に心理的なものだとわたしは考えます。一般的に、いやなことは「長く」感じますし、楽しいことは「短く」感じるものではないでしょうか。
集会や礼拝、ミサを拘束時間ととらえれば、もうそれだけで「長い」と感じてしまうでしょう。先の子どもの質問がそれを表しています。「拘束される」と思えば、その時間の長さが気になるのです。
礼拝やミサを「義務」と捉える方もいるようです。「しなければならないからする」という考えです。幼少のころからの信者である方に多いようです。「したいからする」という思いになったら、どんなに素晴らしいでしょう。
そのように思えるためには、集会や礼拝、ミサが意味あるものにならなければならないと考えます。習慣的なものになったり、意味が見えない形だけのものになれば、窮屈で拘束されているように感じさせることにもなるでしょう。
賛美歌が歌われ、祈りが唱和され、聖書のみ言葉が読まれ、そして説教が行われる。そのすべてが神とのつながりを深めるものです。神とのかかわり、つながり、交わりを深めるためには、「沈黙の時」を欠かすことはできません。礼拝に時宜にかなった沈黙を取り入れることによって参列者は神と出会い、神とのつながりを深めることができるのです。
ある教会では日曜礼拝に子どもたちも参加し、3歳児でも前の方で最後まで礼拝に付き合います。3時間近くかかる復活徹夜祭では、小学生でも眠らないで大人と一緒に礼拝して、終わりには喜々として復活祭の卵を配ります。
要は内容ではないでしょうか。
やまもと・まこと 1953年福岡県生まれ。80年、カトリック司祭となる。81~85年、ローマ在住(教会法研究)。福岡教区事務局長、福岡カトリック神学院院長などを経て、カトリック西新教会主任司祭、