3月26日「正しい者はいない」

正しい者はいない。一人もいない。...彼らの目には神への畏(おそ)れがない。(ローマの信徒への手紙3章10、18節)

パウロはすべての人間が罪の下にあることを、冒頭の旧約聖書の言葉によって示す。これは詩編14編の引用で、「主は天から人の子らを見渡して」という前文がある。人間の目から見れば善人と悪人の区別はあっても、神の目から見れば区別はないと言う。聖書が言う「罪」とは、個々の罪悪や犯罪のことだけではない。人間が神の栄光を現す者として創造されたのに、神を侮り、自分勝手な道を歩んで、神との関係を踏み外していることである。人間が「平和の道を知らず」(17節)、社会に「破壊と悲惨がある」(16節)のは、詰まるところ、「神への畏れがない」(18節)罪に起因していると聖書は言う。

会社ぐるみの不正事件で、社員が「いつかはばれるだろうという恐れはあった」と答えていた。これは犯罪がばれて社会の制裁を受ける恐れであって、悪を行う自分が恐ろしいのではない。しかし、神は侮られる方ではない。人の目をごまかし、その場をしのげても、神の裁きを免れることはできない。神は聖書を通し、また良心を通して、戒めを与えておられるので、神の裁きの日には「すべての人の口がふさがれ」(19節)るほかないのである。病人が医者の診断によって自分の病を知り、放っておけば死んでしまうと分かれば、真剣に治療を求めるように、自分の罪を示されたならば、罪の赦(ゆる)しと癒(いや)しを求めて神の前に出なければならない。「人の前で話すことが出来る自分の考えとか、思想によって、私たちは神にお会いすることはできないのです。人にも言えない、自分だけが悩んでいる、また恥じている、そこでしか神にお会いできないのです」(森有正)。

 






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