SNS上で「寺嫁」と名乗るアカウントがここ数年で急激に増えたように思う。
寺嫁と名乗って積極的な発信をはじめた先駆者は、おそらく2002年に「みんなの寺」を夫婦で開山した天野和公さんだろう。夫婦二人三脚のお寺づくりの様子を絵日記形式で発信していた天野さんのHPは仏教関係者のみならず一般の人からも注目を集め、絵日記の一部は書籍化もされている。
住職の配偶者は宗派によって呼び名は異なる。浄土真宗では伝統的に住職の妻は「坊守」と呼ばれてきた(浄土真宗本願寺派では2004年、真宗大谷派では2008年に男女問わず住職配偶者は坊守となれるよう法規が改正されている)。浄土宗や日蓮宗などでは「寺庭婦人」と称される。現行の曹洞宗宗憲では「本宗の宗旨を信奉し、寺院に在住する寺族簿に登録された者」を「寺族」と規定しているが、同宗では長い間、寺族=住職夫人と限定的に使われてきた。
名乗る呼称によって所属が推測されてしまうが「寺嫁」であればどこの宗派かわからない。顔はもちろん住んでいる地域も、年齢も、お寺の規模もわからない。昨今増えているのは、匿名でゆるやかにつながり、お互いの経験や情報を共有しあう「寺嫁」たちだ。
匿名のやり取りをするには、寺嫁は実に理にかなった肩書きでもある。「嫁」の字のもつニュアンスも、彼女たちの境遇をよくあらわしてもいる。SNS上では住職や副住職の妻として入寺したという共通項でつながった女性たちが情報やアイディアを共有したり、日頃のモヤモヤを吐き出してみたり、さらにはお寺あるあるに盛り上がってみたりとさまざまなやり取りがなされている。時に彼女たちに「指導」するようなリプライがつくこともあるが、ある人はユーモラスにあしらい、ある人は上から目線を痛烈に批判し、ある人は傷ついたであろう人に励ましの言葉をかける。
常に周囲の眼差しに晒(さら)され、模範的であることが求められる僧侶の妻たちにとって、匿名の寺嫁アカウントでの発言は開放感もあるだろうし、匿名だからこそ言えること、言い返せることもあるのだろう。お寺の「常識」が一般社会の側から驚きをもって見られることもある。そのため寺嫁アカウントの発言が〝バズる〟こともあるが、それを茶化したり、まして非難したりするのではなく、これまで不可視化されてきた戸惑いや苦しみの発露として受け止めるということが必要だろう。
『月刊住職』2021年10月号では寺嫁特集が組まれていた。記事では「『寺嫁』は住職や副住職等の妻たちの一部が自発的に使っているネットネーム」、「『寺嫁』同士で相互フォローしている人がけっこう見られる」とし、寺嫁ツイッター(現X)は「外からお寺に入った女性が抱いた違和感や悩みを通じて『つながる』場」だと紹介されている。
確かに各地域には寺庭婦人会や坊守会などがあるし、宗門からのオフィシャルな案内などもある。しかし彼女たちが声をそろえて言うのは、気軽な情報交換の場がないということだ。住職や副住職の妻たちに求められる役割や仕事は多岐にわたるが、しかしそれらのほとんどは明文化されているものではない。地域性もあるし、同じ宗派でもお寺によってやり方や習慣が異なることもある。義理の母の見よう見まねで覚えざるを得ないという話も聞くし、そもそも教えてもらえないことすらあるという。住んでいる場所や立場の違いを超えてタイムリーに連携できるのがSNSの強みでもあるが、オンライン上の寺嫁コミュニティは情報化時代のツールを使いこなす新たな世代が仏教界にも登場したと見ることもできよう。
丹羽宣子(中央学院大学非常勤講師、宗教情報リサーチセンター研究員)
にわ・のぶこ 1983年福島県生まれ。一橋大学大学院社会学研究科博士後期課程修了。博士(社会学)。國學院大學日本文化研究所共同研究員。著書に『<僧侶らしさ>と<女性らしさ>の宗教社会学――日蓮宗女性僧侶の事例から』(晃洋書房)。