前回まで宗教リテラシーの第一段階、すなわちすべての人に求められるリテラシーについて書いたので、今回からは第二段階、すなわち宗教に信者あるいは指導者として積極的にコミットする人に求められるリテラシーについて書く。それはひと言でいうと宗教多元主義である。
宗教多元主義については、この連載が始まって間もなくのころ(2017年10月11日号)に書いている。そこでは、この主張がなされてから半世紀近くが経過した今日でも日本のキリスト教界に根付かないままであること。その理由は、この主張が難解だからではなく、逆に、古くから複数宗教が混在する日本に生を受けたものには「今さら感」が先に立ってしまうと書いた。古い道歌「分け登る麓の道は多けれど同じ高嶺の月を見るかな」を引いて、「つまるところこれでしょ」というわけである。
さらに、どの宗教もゴールは同じというような考えは、宗教が他人事の人にとってはよくても、個別の宗教に救われた当事者(信者)にとっては無責任としか映らない考えであると指摘した。
しかしこの主義の主唱者である英国の神学者ジョン・ヒックが自らの宗教多元主義をシュライアマハーを介して最終的には初期の教会教父、特にエイレナイオスにまで立ち戻っていく、長くて堅実な神学の系譜に属すると主張しているように、これは「同じ高嶺の月を見るかな」と達観する宗教哲学的主張ではなく、特定の宗教団体にコミットし、その責任を担いながら、他宗教との関係性を、真剣かつ誠実に思考した末にたどり着く一つの神学的立場の表明である。
この宗教多元主義に通じる思想を組織神学者として最初に公にしたのは、ヒックもその名を挙げている近代神学の祖フリードリヒ・シュライアマハーだ。彼は『宗教論』(1799年)において、宗教の本質を「無限者(神)を感じ味わうこと」と規定し、イエス・キリストによる啓示も、神についての数多くの「味わい」の一つであるという今日の多元主義に通じる思想を展開した。
19世紀ドイツのプロテスタント教会の牧師職にあったシュライアマハーは、当時、そのような主張を匿名の著書によってしかすることができなかったが、今日でもこの主張はカルト宗教のみならず、カルトではない伝統宗教に対してもラディカルな挑戦となるだろう。
宗教多元主義の立場をとることで、宗教は必ずしも一生ものというわけではなく、いつでも他の宗教に乗り換えらえるし、また辞められる。そして再開もできる。さらには一度に複数の宗教にコミットすることも可能という考えが、少なくとも論理的には成り立つからである。七五三は神社で、結婚式はキリスト教式で、葬儀は仏教でという日本人にはままある宗教へのコミットの仕方は、これまで宗教の当事者からは宗教的節操のなさとして批判的に語られる場合が多かったが、多元主義の立場に立つとまったく別の評価になるかもしれない。またカルト宗教が脱会を認めないのは言うまでもないが、伝統宗教でもいったん入信(洗礼を受けるなど)したらそれを取り消すことは理論上(神学的・教学的に)できない場合が多い。
したがって、特定の宗教の信者や、その宗教の指導者に宗教多元主義をリテラシーとして受け入れてもらうというのは現状ではほぼ不可能に近いのだが、数十年といった短期的な視座ではなく、数百年という長期的な視座で宗教の命運を考える時には、この道しかないと私は考えている。(つづく)
川島堅二(東北学院大学教授)
かわしま・けんじ 1958年東京生まれ。東京神学大学、東京大学大学院、ドイツ・キール大学で神学、宗教学を学ぶ。博士(文学)、日本基督教団正教師。10年間の牧会生活を経て、恵泉女学園大学教授・学長・法人理事、農村伝道神学校教師などを歴任。