100年前、タロコ族の女性、チワン・イワル(漢字名=姫望・伊娃兒)(1872~1946年)の信仰生活を通じ、神は私たちに近づいてくださった。
チワンは清朝末期に生まれ、日本統治時代に育ち、晩年は国民党の台湾移転時代を過ごした。チワンは伝統的な価値観を打破した女性であった。幼いころから、結婚は自由意志の元で行われると考え、自分の部族外の人との結婚を求め、18歳で漢族の男性と結婚した。しかし、それが同族の恨みを買い、結婚式の3カ月後、チワンの夫は同族の若者に殺害される。
その後、チワンは別の漢族の男性と再婚し一緒に商売を始めた。この当時、日本による台湾の植民地化が始まり、日本軍によるタロコ族の土地占領および、強姦事件をきっかけに激しい抗争が起こる。チワンはタロコ族と日本警察との通訳を約8年間務め、部族民と日本軍との和平交渉条約締結に尽力し、部族虐殺の危機を回避させた。しかし、この間に2番目の夫を病で亡くしている。その後、さらに別の漢族の男性が婿入りし夫となったが、この夫は実は妻子持ちの賭博師だった。チワンは最終的には離婚したが、財産も土地もすべて彼に使い込まれ、無一文同然となってしまった。
チワンは絶望と孤独を抱え、生活も行き詰まりを見せていた。しかし、人が絶望を感じた時こそ、神の力が現れる。チワンはあるキリスト者と出会い、慰められ、そして神を知るようになった。チワンは洗礼を受け、キリストによって新たな人生を得ると、台湾初の原住民女性キリスト者として熱心に福音を宣べ伝え始めた。
ある日、アメリカ人宣教師ジェームズ・ディクソンがチワンにこう尋ねた。「どのようにすれば神の愛を原住民と分かち合えるか?」当時、日本政府は、山地の原住民部落に原住民以外の人が立ち入ることやキリスト教伝道を禁止し、原住民に神道と天皇崇拝を義務付けていたからだ。
そこで1929年、花蓮港教会の劉牧師は、チワンが原住民部落への伝道に最適な人と考え、チワンに「淡水婦学堂」(宣教師が開いた女子教育機関)で聖書を学ぶことを勧めた。チワンは「私はもう56歳で、顔には部族特有の刺青もあり、学校の若者たちとはなじめない」と拒否した。ディクソン宣教師と劉牧師はチワンを説得し、最終的に原住民への福音伝道の準備となる聖書の勉強を始めることになる。
淡水婦学堂を卒業し、チワンは故郷の部落への宣教に派遣され、親戚や近隣の村で福音伝道を開始した。日本の警察はキリスト教伝道が行われないよう、常にチワンを監視していたが、部族の若者たちは、チワンを麻袋に入れサツマイモの葉で覆うなど、さまざまな方法で日本の警察から隠し通した。またこの時期、日本政府はタロコ族を高山地帯から平地に移住させていたため、タロコ族の部族アイデンティティは揺らいでしまい、人々は生きる意味を探し求めていた。こうしたことが背景となり、多くの部族民がキリストを信じるようになった。彼らは、日本人に怪しまれぬよう、夜に洞窟や野山で礼拝を行い、聖書や讃美歌を山に埋めて隠してから、農具を携えて仕事に出かけていた。
チワンは密かに地下宣教活動を立ち上げ、福音の種を蒔き、死ぬまで神への忠誠を貫き、台湾の「20世紀宣教の奇跡」の原動力となった。後の世代のキリスト者は、チワンの墓石の前にこう記した。「チワンの働きの一つひとつは小さくあっても、これほど多くの人々にこれほど多くのことを成し遂げた人物はチワンのほかにいない」
(原文:中国語、翻訳=笹川悦子)
甦濘・希瓦
スーニン・シーワ 台湾の原住民族プユマ族。玉山神学院卒業後、台湾神学院で神学修士・教育修士、香港中文大学崇基学院神学院で神学修士。現在、台湾基督教長老教会・玉山神学院(花蓮県)のキリスト教教育専任講師、同長老教会伝道師。