「神の愛」。クリスチャンなら100万回は聞いただろう。そして99万9000回くらいは同じような解説をされたと思う。「誰をも受け入れる姿」「どんな罪をも赦すお方」。言葉は確かに美しい。しかし、いくら聞いてもこれらは心に響いてこない。理由は単純で「リアル」じゃないから。そしてよく分からないが反射的に「アーメン」と言い、その不鮮明さゆえに自分には神の愛が分からないのだと苦しんでいる気がする。少なくとも僕はそうだ。
ボンヘッファーは「神の愛」についてこう説明する。
神の愛は、この世の最も激しい現実にまで到達し、この世の苦しみを身に負うのである。
「愛」とは「痛みを担う」こと。彼は別の本でも「苦しむ神だけが、助けを与えたもうことができる」と言っている。最初、僕はこの言葉もよく分からなかった。だけどある出来事を通してこの意味を少し知った気がする。
2022年8月、僕は牧師になるための研修としてドイツに渡った。研修と言っても宿・食事・移動・教会をすべて自分1人でアポを取り、横断する武者修行のような1カ月だった。
その初日に事件は起こった。
ミュンヘン国際空港へ20時に到着。観光客は19時以降歩かない方がいいと言われている中、ここから1時間かけてモーテルへ向かう。すでに緊張で服はビショビショ。電車に揺られているうちに、ようやく最寄駅に着いた。するとさっそく窓ガラスの破られた商店街と、酒の飲み過ぎで倒れた人たちが目の前に飛び込んできて手厚い歓迎を受けた。
そこから15分ぐらい歩くとモーテルに着くのだが、いざ到着してから本当の事件が起こった。何と支配人が帰っていて不在だったのだ。
ここには従業員がおらず、1人で経営するモーテルの支配人であるおっちゃんから鍵をもらわなければ部屋に入ることができない。つまり、僕はドイツ初日でホームレスになりそうになった。時間は21時。周りを見れば酒とタバコで盛り上がるおじさんと、スピーカーから音楽を爆音で流す若者たち。ここで人生初のホームシックにかかってしまう。
僕は勇気を振り絞って周りのドイツ人に尋ねた。「モーテルに入りたいのですが……」「支配人はどこへ……?」。するとみんな鼻で笑ったり、首を傾げて立ち去った。当たり前だ。コロナの規制が解けない中、旅慣れしていないアジア人が1人でこの時間に迷子。どう考えても不審者一歩手前だ。次第に夜の喧騒が盛りに迫り、僕は一人ぼっちになり泣いていた。すると後ろから「ザッ、ザッ」と音が聞こえた。誰かがこっちに歩いてきている。不安になりパッと後ろを見ると、そこには明らかに泥酔したイカついスキンヘッド3人組がいた。
この時、僕は祈った。「あぁ、神よ。俺はここで丸裸にされるのか。あと20日ぐらいドイツにいる予定なのにどうしましょう。……というか、マジふざけんなよ、神!」
すると彼らは近づいてきてこう言った。「大丈夫か?」
何気ないひと言がこんなにも人を救うのかと思わされた。僕は「大丈夫じゃないです」と即答し、事情を話した。すると彼らはなんと、その場で支配人へ「客がいるから戻ってこい」と電話をかけ、何も飲み食いしていない僕のためにビールとパンを買ってきてくれた。普通、見知らぬ観光客にここまでしてくれる人はいない。「なぜそこまでしてくれるの?」と尋ねた。すると彼らは「モーテルの部屋からお前を見ていた。同胞もいない困ってる奴を放っておけるかよ」と言ってくれた。この時、少しだけ神への怒りは収まった。
しばらく彼らと立ち話をしていると、その生い立ちから彼らの優しさを知れた気がした。まず彼らは東欧からの移民であった。祖先はドイツで迫害にあって家を失い、自分たちも出稼ぎをする必要から貧しい中ここで過ごしているのだという。社会的にも、精神的にもあらゆる崖っぷちに直面してきたに違いない。そんな彼らが僕に手を差し伸べてくれた。それは「心の余裕」からではなく「心からの痛み」、誰かの苦難が自分のことのように分かる気持ちからあふれ出たのだと思う。
聖書でイエスはすべての町や村を巡り、神の言葉を宣べ伝え、あらゆる病気を癒やしていた。しかし、そんな彼は余裕があったわけではない。その根底には「憐れみ」があったと記されている。「憐れみ」は原文のギリシャ語を見ると「腹わた、内臓が痛む」が語源。つまり、体と心がその奥底から引きちぎれんばかりに生じる激痛のことを意味する。
イエスの人生は「痛み」の連続だった。生まれた場所は病院ではなく馬小屋。周りにいたのは医者や宗教者ではなく、呪術師と日雇い労働の羊飼いたち。もともと彼の両親も、この子を育てられないと思い離婚まで考えていた。そんな彼が大人になり、人を救うべく立ち上がったが、今度は社会が立ち塞がった。人を癒やすとファリサイ人から律法違反だと罵られ、聖書の言葉を語ると宗教者たちから命を狙われ、そして最後に愛していた弟子から裏切られ、十字架にかけられる。彼の人生は最初から最後まで悲惨だった。
でも、そんなイエスだったから人を救えたのだと思う。自分が痛みを知るからこそ、目の前にいる痛む人を救いたかった。その痛みをすべて担おうとしたのだ。
時折、あるいは毎日「神の愛を知りたい」「神に愛されたい」と僕たちは願い、どのような振る舞いがふさわしいのか考える。しかしその答えは一つ、ありのままの姿でいることだ。傷があるなら隠さなくていいし、悩みがあるならそれにふたをしなくていい。なぜなら神こそ、その痛みを一番知っているからだ。
結局、支配人が戻ってくることはなく、代わりのホテルも彼らが探してくれた。去り際にタバコを1本差し出し、「最高の旅を!」と言ってくれた。ありがとうお兄さんたち、最高の旅はすでに始まっていたよ。
僕はもう一度言いたい。神の愛とは何か。それは、この世の苦しみを一身に背負う神の姿そのものだ。そして、その神はあなたの痛みをともに担おうとする。痛みを知るからこそ、今日もその傷だらけの体で、僕たちの前に立とうとする。
神の愛って、そんな泥臭いものなんだと思う。
「群衆が羊飼いのいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」(マタイによる福音書9章36)
出典:D・ボンヘッファー 著/倉松功、森平太 訳『抵抗と信従』(1972年、新教出版社)
ふくしま・しんたろう 牧師を志す伝道師。大阪生まれ。研究テーマはボンヘッファーで、2020年に「D・ボンヘッファーによる『服従』思想について––その起点と神学をめぐって」で優秀卒業研究賞。またこれまで屋外学童や刑務所クリスマス礼拝などの運営に携わる。同志社大学神学部で学んだ弟とともに、教団・教派の垣根を超えたエキュメニカル運動と社会で生きづらさを覚える人たちへの支援について日夜議論している。将来の夢は学童期の子どもたちへの支援と、ドイツの教会での牧師。趣味はヴァイオリン演奏とアイドル(つばきファクトリー)の応援。