【Web連載】「14歳からのボンヘッファー 」(5)絶望の海を泳ぎながら 福島慎太郎

小さい時に沖縄へ行った時、プカプカと海に浮かびながらこう思っていた。「海に住みたいな。太陽の日差しは僕を照らし、水の心地よい温度は僕を包んでくれる」。しかしそれも束の間、突然目の前が真っ暗になると同時に体が痺れ始めた。気づくと父親が僕を陸まで引きずり出していた。何が何だか状況はつかめていない。しかし後から聞くと驚き半分、納得半分。僕が海に浮かんでいる時、そこそこ大きな波と共に大量のクラゲが現れ、慌てた僕はまず水を吸い込んで気絶。それと同時にクラゲを握ったか蹴ったかで見事に刺胞(毒針)が刺さり、身動きが取れなくなった。実はそこから十数年、海へ入っていない。

なぜか分からないけど人間は「あぁ良い光景だなぁ」と思った途端、奈落の底へ突き落とされることがよくある。それを神学者や牧師たちは「罪の現実」や「悪魔の力」などと表現するが、そんな言葉で片付けてくれるなよと思う。良いとか悪いとか抜きで、とにかく社会は複雑で、人生は基本的に雨模様なのだと思う。

ある日、イエスと弟子たちはガリラヤ湖に舟で旅に出ていた。すると突然暴風が起こり、嵐が迫ってきた。当然彼らは驚いた。それは嵐以上に、彼らにとってありえない出来事だったからだ。

弟子のほとんどは漁師をしていた。漁師であればその日の風や波の高さから航海が可能かどうか判断出来る。その彼らにとって慣れ親しんだ光景であった天気、風の向き、波の高さ、そのすべてが予想外の方向に裏切られ、今崖っぷちに立たされていたのだ。

こんな時、人間の冷静さや考える力を狂わせる存在とは何だろうか。それは「恐れ」である。これは何かへの「驚き」や「戸惑い」ではない。ボンヘッファーは言う。「恐れは人間をあからさまに嘲笑して言う。今は私たち二人だけだよ、君と僕とね、さあ、僕の本当の顔を君に見せてやろう」

恐れとは竹藪のようなものだ。掻き分けて進もうが草木が道を閉ざし、光を見つけて駆け寄ろうとしても暗闇がそれを覆う。人間の歩みに「もうそこまでだよ」と語りかけ、絶望を心に植え付ける。そしてそれは〝私〟の心に住み着くのだ。「今は私たち二人だけだよ」と。

弟子たちは嘆いた。それは嵐以上に自分たちの人生が霞んで消えかけていたからだ。ガリラヤ湖を知り尽くした漁師が海に飲み込まれようとする。もはや慣れ親しんだ光景は絶望へ変わり、自分の知恵や力、経験は何も役に立たない。

人間は心の傷や後悔を記憶しないように「慣れ」を覚える。これは防衛本能だ。失敗した、「けど自分の実力はこんなもの」。過去の傷が今生きる力をエグりつける、「まあ俺の人生こんなもの」。「恐れ」は次第に僕たちの心の奥底へ安らかに眠ろうとする。ボンヘッファーはこの人間の姿を「私たちが、今はもう、恐れから決して逃れようとしないということが、最悪のことなのである」と表現する。つまり恐れへの慣れは人間の「最悪」の光景なのである。

だからこそ、彼は続けて言う。「しかし人間は恐れてはならない。私たちは恐れてはならないのだ! 出口のない状況、曖昧さと罪の負い目の中にあって、希望を知っているということが、人間のすべての被造物と違う点である」。何が希望なのか。ボンヘッファーは叫ぶ。「キリストが舟の中にいましたのだ!」

Michal JarmolukによるPixabayからの画像

弟子たちは最悪の状況を迎えていた。風に揺られ、舟は浸水し、命が尽きるまであと数十秒。しかしただ一人、舟からも弟子たちからも逃げず、むしろその真ん中に立ち続けた人がいる。「死にそうだ」と怯えるのではなく「どうしてこわがるのか」と問いかける人がいる。弟子たちは今見た、「キリストが舟の中にいましたのだ!」。

恐れは人間を孤独に追い込む。希望も救いも何も見せない。しかし、その牙城を破壊し、進もうとする人がいる。キリストだ。彼は天から突然助けに来るのではない。すでに〝あなた〟という舟に乗り込んでいるのだ。弟子たちが恐れるその前から、キリストはすでにその身を共にしていた。

また弟子たちが「死にそうだ」と言った時、心のどこかに「お前が救い主なら助けてみろよ」という不満を抱え、キリストを遠ざけていたはずだ。しかしキリストは弟子へ語った直後、嵐を沈めた。だからボンヘッファーは言う。「どうか、嵐と没落の時をよく理解して欲しい。それは神がいまだかつてなかったほどに近くいます時であって、まさに遠くにいます時ではないのである」

信仰とは人生の嵐に合わないことではない。人生は嵐だ。しかしそれは一人で耐え忍ぶものではない、キリストは今あなたの隣にいるのだ! キリストは私の苦しみの時、何よりも、誰よりも近くにいる。彼は弟子を「信仰の薄い者」と呼んだ。弟子たちは危機迫る時にキリストが逃げると思っていた。しかし実際はその反対であった。キリストは舟の中にいた。

嵐が過ぎ去った後、弟子たちは恐らく空にかかる虹、水面に映る光を見たであろう。嵐は嵐で終わらず、嵐を経て見える景色がある。

だから僕たちも今日、人生という大海原を渡ってみたい。別にゴールへたどり着かなくてもいい。ただ沖に浮かぶ舟に乗り込むだけで構わない。だけどその時、一つのことを忘れないでほしい。それは、たとえ嵐が起こったとしてもあなたの手を離さない人、あなたが恐れに満ち、明日が見えなくなったとしても新しい景色を見せようとする人が隣にいる。そんな舟に乗っているのならば、絶望の海を泳ぐのも案外悪くないかもしれない。

「イエスが舟に乗り込まれると、弟子たちも従った。すると、湖に激しい嵐が起こり、舟は波に吞まれそうになった。ところが、イエスは眠っておられた。弟子たちは近寄って起こし、『主よ、助けてください。このままでは死んでしまいます』と言った。イエスは言われた。『なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ。』そして、起き上がって風と湖とをお叱りになると、すっかり凪になった。人々は驚いて、『一体、この方はどういう人なのだろう。風や湖さえも従うではないか』と言った」(マタイによる福音書8章23~27節)

(出典:D・ボンヘッファー 、大崎節郎・奥田知志・畑祐喜・森平太訳『ボンヘッファー説教全集2:1931-1935年』、新教出版社、2004年)

 ふくしま・しんたろう 牧師を志す伝道師。大阪生まれ。研究テーマはボンヘッファーで、2020年に「D・ボンヘッファーによる『服従』思想について––その起点と神学をめぐって」で優秀卒業研究賞。またこれまで屋外学童や刑務所クリスマス礼拝などの運営に携わる。同志社大学神学部で学んだ弟とともに、教団・教派の垣根を超えたエキュメニカル運動と社会で生きづらさを覚える人たちへの支援について日夜議論している。将来の夢は学童期の子どもたちへの支援と、ドイツの教会での牧師。趣味はヴァイオリン演奏とアイドル(つばきファクトリー)の応援。

【Web連載】「14歳からのボンヘッファー 」(4)お前のために命をかける 福島慎太郎 2023年4月19日

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