今回が本欄での最後の寄稿になるので、筆者自身のムスリムとの出会いとそこから得たことについて書きたいと思う。
筆者がムスリムと直接出会ったのは、バブル経済が崩壊してから2、3年経った時であった。当時、公園などの人の集まりやすい場所には、仕事の情報を得るために多くのムスリム労働者たちが集っていた。例えば、東京の上野公園には多くのイラン人がたむろしており、筆者はまるで異国に来ているかのような印象を受けたことを記憶している。
縁あって労働のために来日して長く日本に暮らす外国人ムスリムたちと出会う中で、筆者は本当のイスラームを知り少しずつ理解するようになっていった。彼らはさまざまな国から来ていた。当初はムスリムであれば全員がまったく同じ宗教実践をするのかと思っていたが、決してそうではなかった。信仰の温度差のみならず、地域性も見られた。実際に礼拝時の手の位置や食べられないものについて、細かく聞いていくと千差万別であった。
ただ彼らに共通して言えることは、信仰の熱意における差こそあれムスリムであることを自負しており、またごく自然に宗教教義を実践しているという点であった。日本はイスラーム的な環境ではないから、できない時がある。できない時には無理にはしない。無理にやれば周囲の非ムスリムから反発されかねないからである。もちろん、できる時間になれば行う。やりたくない時もある。そんな時には無理にはしない。無理にやっても「したい」という心がないから、その行為は無意味である上、それが他人からの強制であるならばますます嫌な気分になるのである。
15年以上も前の話になるが、ある外国人ムスリムとのインタビューでのひと言が今でも記憶に残っている。「日本でムスリムが増えることは良いことだと思う。でも、その後が問題。周りの反対を押し切って無理に(イスラームの宗教教義を)やろうとする。イスラームを知らない人はビックリするから、彼らは(ムスリムを)気持ち悪く思うだろうね。それに(日本人の改宗者は)いきなりすべてを完璧にやろうとするから、周りの人間がどう付き合っていいのか分からなくなる。それと、(改宗者は)ある時に(宗教実践を)やりたくないと思ってしまう。やりたくない時に無理にやっても、心がついていかないから長続きしない。無理にやることは禁止。それに、相手に無理にさせることも禁止だよ。やりたくない事情があるかもしれない。本当にできない時はできない時の方法がある。多くの人は知ったことのみに留まってしまう。本当の理解はそこから先にあるのだけどね」と教えてくれた。
多くのムスリムと知り合うことで、イスラームとは何かを体感的に学んでいった。ゆえに、理屈ではない、生き生きとしたイスラームに触れることができた。彼らと出会うまでは、宗教教義に厳格で日本社会から逸脱した存在となっているのではないのかという懸念があったが、そうではなかった。宗教で認められていないお酒を飲む上に、義務の礼拝も集団礼拝の時だけなど、日本で自由を謳歌している者もいた。彼らの姿を見て、やはり人間であると少し安心した。
多くのムスリムと直に接することで、イスラームの本質を知るだけでなく、理解することができる。イスラームは決して難しい宗教ではない。ムスリムと直接出会い、親交を深めることで、「知識」から「理解」へと発展することができる。
小村明子(立教大学講師、奈良教育大学国際交流留学センター特任講師)
こむら・あきこ 東京都生まれ。日本のイスラームおよびムスリムを20年以上にわたり研究。現在は、地域振興と異文化理解についてフィールドワークを行っている。博士(地域研究)。著書に、『日本とイスラームが出会うとき――その歴史と可能性』(現代書館)、『日本のイスラーム』(朝日新聞出版)がある。