*「Ministry」最終号の刊行を記念して、2009年1月発行の創刊準備号に掲載された編集主幹による対談を全文公開する。
これまで週刊「キリスト新聞」を通し、広くキリスト教界のニュースを報じてきたキリスト新聞社だが、この4月から、新たに雑誌を創刊すべく着々と準備を進めている。コンセプトは、牧師・教会役員のための教派を超えた総合情報誌。その名も、次世代の教会をゲンキにする応援マガジン――「Ministry」。新聞の購読数が減り、雑誌の休刊が相次ぐという「冬の時代」に、あえて創刊の志を掲げ編集主幹として立ち上がった2人が、今日の〝宣教〟をめぐる課題と新しい〝メディア〟への意気込みを熱く語り合った(プロフィールは掲載当時)。
平野克己 ひらの・かつき 1962年生まれ。国際基督教大学卒業、東京神学大学大学院修了、デューク大学客員研究員。日本基督教団代田教会牧師。著訳書に『いま、アメリカの説教学は――説教のレトリックをめぐって』(キリスト新聞社)、ウィリアム・ウィリモン『洗礼』(日本キリスト教団出版局)など。
越川弘英 こしかわ・ひろひで 1958年生まれ。同志社大学神学部、シカゴ神学校卒業。日本基督教団教師。同志社大学キリスト教文化センター教員。著書に『キリスト教礼拝・礼拝学事典』(監修・共著、日本キリスト教団出版局)、『今、礼拝を考える――ドラマ・リタジー・共同体』(キリスト新聞社)など。
牧師は今「健やかな情報」に飢えている――平野
多様な意見を出し合える「広場」の役割――越川
――お二人には今回、編集主幹という大役をお引き受けいただいたわけですが、初めに新しい雑誌を創刊しようと考えたそもそものきっかけについて話していただけますか。
平野 私自身のことから話をしますと、神学校を卒業して19年になります。どんなことでも10年もすれば慣れるものでしょうが、未だに牧師の生活にどこかおぼつかなさを感じています。何とも言いがたい苦労を感じていた折、教会から1年間の研究休暇をいただいてアメリカで過ごしました。地元の教会に集い、デューク大学の神学部に出入りする中で、日本との違いにずいぶん驚かされました。何より、牧師に対するケアがとても厚いんです。神学部が提供している継続教育プログラムは非常に豊かですし、牧師が読むべき雑誌やインターネット上の情報もたくさんあります。
ところが帰ってきてみると、日本語で読める牧師のための雑誌はほとんどありません。教会であえいでいる牧師たちが手に取れる雑誌がないんですね。その一方で、私たちの周りに疲れ果てている牧師がたくさんいることも耳に入ってきます。特に最近、神学校を出て間もない伝道者たちがどんどん戦線を離脱しています。自死をした若手牧師のことも伝え聞きました。
そんな中で、「なんとかお互い励まし合えるような雑誌を」という願いを持っていたんです。
越川 日本のキリスト教界は規模が小さい割に、出版活動は非常に盛んだと思っています。キリスト教人口は少ないのに、毎月新刊書が十数冊も出るというのは珍しいことではないでしょうか。でも平野先生がおっしゃるとおり、不思議なことに牧師のための専門雑誌がない。
私はキリスト新聞で連載した「礼拝探訪」の執筆を通して、さまざまな教派の教会や牧師と接することができましたが、ふり返ってみると、それまでの自分が本当に他の教会・教派のこと、牧師や信徒の方たちのことを知らなかったんだなということを改めて知ったように思います。
私は日本基督教団に属していますが、同じ教団内でも近隣の教会や牧師のことすらよく知らないということもありました。教派をまたぐとさらに分からない。それぞれの教派や教会で牧師が共通して抱えている課題は多いと思うのですが、そうしたものがなかなか横断的に伝わってこないという現実がありますね。
――アメリカでは、そうした雑誌がどういう役割を担っているんでしょうか?
平野 例えば、『フェスティバル・オブ・ホミレティックス』(説教の祭典)という催しが毎年開かれています。牧師向けの説教雑誌を刊行している出版社が主催するもので、著名な説教者や説教学者を招いて説教と講演をくり返すというプログラムです。私も参加しましたが、そこには全米から800人の牧師たちが集っていました。
また、『クリスチャン・センチュリー』というよく知られている雑誌がありますが、そこにどんな論文が掲載されたかについてくり返し話題になります。例えばイラク戦争が勃発した時には、スタンリー・ハワーワスが「この戦争は道徳的なものではない」と批判の投稿をして話題になりました。
時代の出来事をキリスト者がどう見るのか、あるいは今特に説教すべき主題は何なのか、そういうことについての共通のコンセンサス作りに雑誌が大きな役割を果たしています。今思えば、日本でなぜこれまでそうした雑誌がなかったか不思議です。
――その理由として何が考えられますか?
平野 二つ考えられると思います。一つは、現場と触れ合う仕方での実践神学がいまだ途上にあるということ。日本では、説教学者も礼拝学者も数えるほどしかいません。もう一つは、みんなが同じテーブルにつくということが難しい状況にあること。これまでにもさまざまな雑誌が創刊されてきましたが、どちらかというと個人誌的な色彩が強く、「牧師たちが共同して日本全体の教会のために」という動きにはならなかったのではないでしょうか。
越川 私も推測でしかありませんが、「職業としての牧師」という感覚が、牧師自身にも教会の中にも作られてこなかった面があると思います。ですから、説教や聖書学にかかわる本はたくさん出版されてきましたし、礼拝や音楽などの問題を個別に取り上げたものはありましたが、総合的に「牧師という仕事が何をするのか」など、押さえておかなければならない共通点などが見過ごされてきたという気はします。
もう一つは、逆に言うと今までそうした雑誌がなくても、学校や旧教派の流れの中で先輩たちが教えてくれていた面があります。ところが、今や神学部にも寮はありませんし、先輩後輩の関係はかなり希薄になっています。
平野 そうですね。私が金沢にいた時分は、長くその土地にいた牧師が、みんなの世話をしてくれました。北陸とはどういう土地で、そこで牧師をするにはどういう課題があるか、教会でトラブルが起きたときの対処法など、その牧師から知恵を拝借することができたんです。
ところが最近では、地方の教会でも、牧師同士が一緒に何かに取り組んでいくということが、段々難しくなってきていると聞きます。共に集うことが苦手な、新しい世代の問題もあるのかもしれません。だからこそ、雑誌ができれば、共通の話題ができると思うんです。それを語り合いながら、またみんなで集まるというようなことができる。ネットの普及によって情報は溢れる一方ですが、ある意味「健やかな情報」に飢えているのではないでしょうか。
――雑誌に限らず、これまでプロテスタントの教会ではメディアの役割について重視されてこなかったのではないでしょうか。
平野 それはあると思いますね。例えば、私にとっては筑紫哲也さんの訃報は大きな出来事でした。というのは、私自身『朝日ジャーナル』世代で、大学時代は『朝日ジャーナル』を脇に抱えながら、よく語り合ったものです。世界を見る一つの目を教えてもらったような気がします。それを基本にして批判的思考が始まる。ある共通の視点を提供するというのは、メディアの大きな役割だと思います。ところがやはり、日本の教会、特にプロテスタントの中では、その役割が重視されてこなかった。
越川 一般的に言えば、こうしたメディアに期待される役割は、現実に何が起こっているかという情報を提供することと、それをどう分析するかということだろうと思います。さっき平野先生は「健やかな」という言い方をされましたが、言い方を変えれば、「多様性」を認めた上で、共通の重要な課題について取り上げることのできる「広場」のような役割が大事なのではないかと思います。しかもそれを専門家の視点から、新聞よりも膨らませた形で、かつ専門書よりは易しい形で提供する。それがこうした雑誌の役割ではないでしょうか。
――実践神学は、日本でどう位置付けられてきたのでしょうか。
平野 少なくともこの30年、実践神学者が一堂に会して語り合う機会はなかったようです。今回集まった編集委員は皆アメリカへの留学経験があり、実践神学に関心を持つ方々です。アメリカはいろいろ問題もありますが、教会が良い意味でも悪い意味でも生き生きしています。
私たちが「現場」と言うときに、個人や地域が「現場」になってしまっていて、そこに教会をどう形成していくのか、その中で牧師がどういう役割を果たすのかということについて、あまり意識的ではなかった。それでも、教会こそ、私たちの「現場」です。そのためには実践神学者同士の語り合いが必要でしょう。ですから、この雑誌がそういう場にもなればと願っています。
越川 神学校などでそうした講座・科目があまり豊かに提供されてこなかったということは言えますね。説教学はあるが、礼拝学や牧会学、音楽学など、単独の講座をもつ神学校は案外少なかったと聞いています。最近は少しずつ改善されているようですが、それでもまだ十分ではないように思います。
そうした科目を教える教師がいなかったということなのでしょうが、牧師というのはとにかく現場に行って、いろいろともまれて、失敗したり挫折したりして成長するものだといった考え方とか、だから学校ではとりあえず聖書や教義などの基礎知識を身に付け、毎週説教するための最低限のノウハウを学んでいれば、あとは教会で育ちなさい・育てられなさいという雰囲気もあったのではないでしょうか。
しかし、実践神学には実践神学固有の領域がありますし、とくに牧師にとっては常に学び続けていかなければならない領域でもあります。私自身、礼拝学をやっていく中でその背景にあるキリスト教史や聖書学、組織神学といったものの意味を改めて実感してきましたし、基礎的な神学の研究のもとに実践神学があり、教会形成の理論や実践がなされていくということを切実に感じました。
例えば、「宣教」という言葉も研究者によってこの言葉の使い方が違うんです。事典を見てもはっきりしない。そもそも宣教や伝道についての共通理解や基本的合意ができていない。そういうことを話し合う場もなかったということなんでしょうけれども、それはやはりまずいと思います。
こうした用語の定義には流動的な側面もあるわけですが、暫定的にであれ、研究者だけでなく日本のキリスト教会、牧師、信徒の間で分かち合える共通の基盤を作る必要があるでしょう。一応の基本概念として「宣教」というのはこういうことだということなしに、「お前のは宣教じゃない」というような言い方をしていたら何も進まない。これ一つを取っても、日本の教会にとっては大きな課題になると思います。
つい最近、『牧会ってなんだ』(共編著、キリスト新聞社)という本を出させていただきましたが、あれも実は私自身の抱えていた問題で、「牧会」という言葉は誰もが使うんですが、改めてそれは何だということを考えると、やはり人によってずいぶん理解が違うんです。そうした基礎的な概念、用語のそれぞれに関して、きちんとした土俵が作られてこなかったという現実があることを知る必要があると思います。そういったことについても、この雑誌が触媒のような働きを果たしてくれることを期待しています。
違いは違いとして明確にしながら、それでも一緒に作り上げていきたい――平野
生きて・動いて・変化する教会をリアルに――越川
平野 学ぶということは、一つのコンセンサス、そして、物事を語り合うときの共通用語を作っていくことだと思うんです。私たちにはどうもそれが欠けていて、基礎だけやって放り出されてしまう。そこでどう教会に対して共通の理解、共通の言葉を作っていくのか。同じ意見を持った人が集まるだけじゃなく、さっき越川先生が「広場」とおっしゃったように、多様な意見をぶつけ合って、どこが違ってどこが同じなのか、お互いが明確になっていく。そんなことができればいいと思います。妥協するというのではなく、違いは違いとして明確にしながら、それでも何か一緒に作り上げていくということができればいいですね。
越川 歴史的に見ても現代においてもキリスト教界は決して一枚岩ではないし、いろいろな実態や思想や活動があるということは明らかな事実です。だからどっちが正しくてどっちが間違っているかということをいきなり性急に白黒つけてしまうというのは、あまり知恵のない話だと思います。
キリスト教はもちろんイエス・キリストという存在に根差している宗教ですが、同時に2000年間にわたって、無数の人たちが悩んだり苦しんだりしながら形作ってきた歴史、伝統、そして知恵というものも含まれているわけで、そうしたものをもっと尊重すべきだと私は思っています。
この新しい雑誌では、「キリスト教の歴史や伝統では……」ということを必ずふまえたい。現時点で生きているあの人の声・この人の声というのは確かに重要なんだけれども、それだけではなくキリスト教の歴史と世界の趨勢の中で見たときに、今、何が起こっているかということを多元的、長期的な視点から見ていくことを大事にしたいと思います。
平野 賛成です。私たちは、教会共同体の一員であるということを忘れてはいけないと思います。私たちは教会の歴史の中のほんの一部分に携わるわけです。その中で、2000年にわたる実に豊かな資産を受け継いできている。そういうものを掘り起こしながら、現在の教会を見ていくという思考が必要だと思います。同時に、今世界の各地で何が起こっているのかという広がりの中で、この時代に、この日本で、自分が教会で牧師として仕えているということを見直す機会が与えられるといいですね。
ある人が、「歴史に学ぶというのは選択肢を広げることだ」と言いました。私たちは歴史や伝統に学ばなければ、自分の見えている範囲でしか選択ができなくなる。その意味でも、やはり学問が必要ですよね。学ばないと、主観的判断から抜け出せません。
越川 私たちが生きて直面している現実というのはほんとうに多重・多層を成していて、決して単純なものではないと思うんですね。一人の人間の中にも多様なものの見方や性格が混在するように、同じキリスト教の中にもさまざまな流れがあって、それらが交錯したり影響し合ったりしながらキリスト教という全体を形作っているんだということを、真剣に意識しなければならないと思うんです。
「礼拝探訪」を約2年間連載した中で、私には思いがけない発見がいくつもありました。例えば、カトリックや聖公会の伝統的な礼拝と、現代風の音楽を取り入れたペンテコステ派の柔軟な礼拝が、構造的には同じものを持っているということに改めて気づきました。さらに驚いたのは、アプローチの仕方は違うけれども、両者ともに礼拝における会衆参加を高めていきたいという意識が共通しているという点です。そのための工夫がいろいろとなされている。それも比較的最近の傾向としてです。
これに比べてみると、日本基督教団の場合、多くの礼拝ではまだまだ信徒の参与は抑制的だということがよく分かるし、自分たちの課題の一端が浮き彫りにされた感じがしました。出席するまでは180度違うような印象を持っていたカトリックとペンテコステ派の礼拝が、同一の目的を違う方向から追求しているという発見は私には新鮮な驚きでした。
そんなふうに自分たちとは違うところで活動している教会、牧師や会衆が何を目指し、どんな活動をくり広げ、どういった問題を抱えているのかということを、知る機会が少ない。またあまり関心を寄せることもないのかもしれません。
でも、キリスト教会というものが私たちの想像する以上に多様性を持ち、生きて・動いて・変化している――そういったダイナミックな動きを持っているということをもっとリアルに実感できれば、それだけでもキリスト教そのもの、そして自分の属している教会に対する私たちの見方は変わってくると思います。それらを知るということは、必ず自分たちの教会のためにもなるはずです。
平野 アメリカでは、1970年前後からしばらくの間、説教への会衆参加が大きな課題でした。対話の説教やハプニング説教、戯曲のような説教など、実験説教の時代があり、そこにフレッド・クラドックが登場して、説教者が一人で語りながら、それでもそこに会衆が巻き込まれていく説教とはいったいどのような形をとるのかということが追い求められてきました。
そういう目で日本の説教をふり返ると、植村正久も山室軍平も高倉徳太郎も、どうやって生き生きと福音を語るかということについて努力をしているのが分かるんですね。ところが、私たちの一般的な説教は、説教時間が長いか短いか、ということだけで評価されたりする。私たちには、生きたみ言葉の中に会衆と一緒に引きずり込まれていくような説教ができるはずですし、過去の説教者たちはそれをしてきたと思うんです。それなのに私たちの礼拝は、説教という面でも、あまりに変わらなすぎる。そういうことも一緒に考えていけたらと思います。
――編集委員の皆さんにはもう一つ、1960年前後生まれという共通点がありますが。
越川 私は1958年生まれですが、教会にかかわり始めたのは70年代の終わり頃からで、ふり返ってみると教会が元気に成長していくという姿をほとんど経験しなかった世代のように感じます。もちろん教勢を伸ばした教派や個々の教会はあるでしょうが、全体として停滞もしくは後退というイメージがある。
でも逆に言うと、そういう経験からして、変に楽観的な思いとか幻想は持っていない世代かもしれませんね。ある意味で「危機的な状況」からいかに反転攻勢していくか、その反転攻勢も「どこに向かって」「誰を対象に」「どういう内容」でといった根本的な部分を考えることも含めて、みんなでやっていくことが求められていると思いますし、苦しいけれどもそこに一つのチャンス、大きなチャレンジが与えられていると考えたいと思います。
先ほども話したように、そもそも教会とは、宣教とは、牧会とは、教会形成とは――といった基本的なことが改めて問われているわけで、そうしたことに特に責任を負うべき世代なのかもしれませんね。
最前線で戦う仲間に、せめて武器を送りたい――平野
自らのあり方を明確化し、発信していくことが求められる時代――越川
平野 私自身には、ある焦りがあります。ふと耳元でささやき声が聞こえるんです。「あと20年、引退するまではこの教会は大丈夫だ」って。もう一方で「本当にそれでいいのか」という言葉も聞こえるんです。私たちの世代が引退するまで教会は何とか持ちこたえるかもしれませんが、それ以後はどうなっていくのでしょう。
悲観的な言い方かもしれませんが、これからの時代にあって牧師として生きるということは、ある意味、殉教者としての道を生きることだという覚悟がどこかで必要だと思います。教会がうまくいかないとか、伝道が伸びないということで、私たちはあまり驚き過ぎない方がいいと思っています。
ただ、その中で元気を出して私たちが主に従うということをしっかりしていけば、多少小さくなろうが、閉鎖されようが、教会を次の世代につないでいけると思っているんです。そもそも私たちは、豊かな暮らしをしたくてキリスト者になったわけではないはずです。主イエスが「小さな群れよ、恐れるな」と言ってくださった言葉を、もう一度みんなで響かせ合いたい。本当にこの時代に主イエスに従っていこう、と呼びかけたいと思います。
私は8年間、北陸で牧師をしていました。もともと東京生まれなので、東京に戻ったのは召命だと信じていますが、それでも一方で最前線から撤退したという後ろめたさがあります。今も礼拝出席が数名という中、最前線で戦っている牧師仲間がいる。せめて、そういう同世代の仲間たちに武器を送りたいという思いが強くあります。それが、都会にいる牧師や神学教育に携わる教師たちの使命だと思っています。
私たちは「新人類」「優しさの世代」と言われた世代でもあります。私たちなりの言葉ややり方がある。戦後すぐに伝道のために献身したキリスト者の錚々たる顔ぶれから考えるとまったく小粒になったかもしれません。それでも、小物にも小物なりの働き方があると思うんです。私たちの先輩、引退していく牧師たちに学び、しかも、私たちの世代、そして私たちよりも若い世代の方々にも助けていただきながら、次の世代の教会のオピニオンリーダー、執筆者、研究者、牧会者たちが育ってくるような雑誌になればいいなと思っています。
――「次世代の教会をゲンキにする応援マガジン」というコピーには、そうした思いも込められていると思いますが。
越川 人数的にキリスト者が増えていくかどうか分かりませんが、キリスト教を次の時代に向かって訴えていくときに、自分たちキリスト者は何を信じているのか、一つのコミュニティとして何を目指しているのかという意識をもっと明確にして発信していくことが、今まで以上に必要になってくると思います。
ふり返ってみると、それは明治初期に日本のキリスト教会がすでにやってきたことでもあります。より大きな歴史的視野から言えば、キリスト教の最初期にローマ帝国の中で急激に広まっていったときに、キリスト教が訴えた独自のライフスタイルとそのコミュニティのあり方がその時代の人々にアピールしていったことをよく考えてみる必要があると思います。それまでの社会の常識が崩れるときにこそ、キリスト教会に求められるものが大きくなっていくと思うんです。
そうしたときに、私たちの側が、どんな信仰、価値観、ものの見方、生き方を大事にしたいと思っているのか、その共同体に属することでどんな「サービス」を受けることができるのか、またどんな奉仕や参与が求められるのか。そういう面で、自分たちの姿を明確化し、同時に外部に向かって発信していくことがそれぞれの教会・教派、牧師・信徒に求められていると思います。
そこで私たちがあらかじめ認識しておかなければならないことは、教会に対する神学的理解や実践のありよう、礼拝や宣教や牧会のスタイル、また牧師の働きや信徒のあり方など、そこにはさまざまなものがあっていいし、そうならざるを得ないということです。
先ほど平野先生から70年代の「実験説教」についての話が出ましたが、あの頃は礼拝についてもいろいろな「実験」がなされた時代だったと聞いています。そうした実験の中には、今から見るとくだらないというか、ばかばかしいというようなものも含まれていたようです。大半は失敗と言うか、後には残らない。でも、そうした中から生き延びてきたもの、残ってきたものが次の時代に影響を与えたり、一つの新しいオプションとして成果を発揮することがあるわけです。
日本の教会の場合、そうした実験に対して臆病だった面があるんじゃないでしょうか。あるいは、そうした実験はこれからなされていく必要があるのかなと思ったりもします。どういう教会像、牧師像が次の時代に求められるのかというのは、実は誰にも分からないんですよ。
自分たちの本質をもう一度振り返る中から元気を取り戻していく。決して空(から)元気ではなく、自分たちの存在そのものに直結するような骨太いものを基本から見つめ直す。自分たちがなぜここにいて、自分たちにどんな使命が与えられているのか、そこをはっきりさせた上で、さまざまな活動のスタイルを点検したり作り出していくということが切実に求められていると思います。
逆に、今までの教会のスタイルを自明のものとして、単にそれを維持しようとするだけだと、早晩行きづまってしまう教会が出てくるように思います。実際、現実に各地でそういう教会が出てきています。むしろ、変化なり実験なり、新しい可能性を積極的に試みていかざるを得ない時代に私たちは置かれている気がします。
野望は、全教会で読まれること(笑)――平野
世界の教会の状況や課題と対話できるように――越川
――将来的な夢はありますか。
平野 この雑誌が、教会の役員たちにも読んでもらえるといいですね。今の時代に教会がどうなっているのか、牧師が今どのようなことで喜び、苦闘しているのか、他の地域や他の教派の教会でどういう取り組みがなされているのかということを、信徒の方にも知っていただきたい。日本の教会の弱さは、牧師中心の教会であることです。牧師が変わってもびくともしないような教会を、ぜひ信徒の方々に作っていただきたい。そのためにも、役員会で話題になるような雑誌でありたいですね。野望は、全教会で読まれるようになることです(笑)。
越川 やはり21世紀初頭の日本のキリスト教会を記録し、牧師や信徒がそこでどう生きているか、戦っているかということを伝えることのできるような雑誌、後世から見てもその時代の教会ときちんと向き合っていたと評価されるようなしっかりした視点を持った雑誌になればと思います。日本の教会の経験が中心になるとは思いますが、韓国やフィリピンを始めアジアの諸教会、アメリカやヨーロッパを含めた世界の教会の状況や課題と対話できるぐらいになれたらいいですね。
私は日本の教会があまり世界のことに関心を持っていないように感じることがあります。自分自身を相対化して見るという視点を獲得するためにもいろいろな人や教会と出会うことは大切です。今回、創刊号にアリスター・マクグラスさんとの対談が載りますが、これからもできるだけ、こうした世界の神学者や牧師、信徒、教会の状況についての情報も盛り込みたいですね。
――ありがとうございました。
(進行・まとめ/松谷信司 撮影協力/日本基督教団霊南坂教会)