新しい年の初め。先が見えない「ウィズコロナ」の時代に、キリスト教界がいま一度向き合うべき「論点」を、シリーズで取り上げる。
生きながらえることは「自己中心」か
「神の愛」の実践としての臓器移植
日本の心臓移植1例目は1968年に札幌で行われた。当時は、移植者について解明できない問題が残り、国内では移植そのものに反対する意見が多く残った。97年に施行された「臓器の移植に関する法律」が2010年に改正され、ドナー(臓器提供者)本人の意思が不明な場合にも、家族の承諾があれば脳死下の臓器提供ができることとなった。以来、年間移植症例が20例以上となり、2019年には全体で84例の移植症例を数えた。2020年からはコロナ禍によりドナーが減っており、今後コロナ禍が解決されると再び多くなると考えられる。
心臓移植を希望する成人は約850人、小児は約70人。実際に移植が受けられるレシピエント(臓器提供を受ける人)は、希望者の10分の1程度であるために、待機時間が4年以上と長くなっている。
心臓移植を含む臓器移植とその成果は、社会的にも広く認識されてきているが、キリスト教プロテスタントの一部にはまだ反対意見が根強く残る。神学者の東方敬信氏は1999年に「脳死と臓器移植」と題する論文(『講座 現代キリスト教倫理1 生と死』日本基督教団出版局)で、臓器提供は「キリスト教の愛」とは異質のもので、神の意図に反し「自己の命が長く持つように移植を受けたいという自己中心主義」と断じた。
しかし、癌などの重病患者が自身の延命を希望して種々の治療を受けることは自己中心主義とは考えられていない。医療現場では、病人が種々の悩みを持ちながらも、できるだけ健康なまま生きながらえてほしいと願う。心臓疾患を抱えた患者もできる限り長く生きたいと考えるのは当然のことであり、移植でしか治療できない状況下で、それを望むのは果たして自己中心と言えるだろうか。
例えば、拡張型心筋症や肥大型心筋症で心臓機能の低下した幼い子どもが死亡のリスクを抱えていた場合、少しでも長く生きてほしいと願う親が、移植を含めあらゆる可能性を追求する姿勢は、自己中心主義と責められるだろうか。
関西学院大学教授の土井健司氏は2003年、互いに相手の状況を理解して合った上での臓器移植は許されるが、脳死による心臓移植には異論を唱えている(「脳死・臓器移植とキリスト教――隣人愛としての臓器提供の問題性と脳死の是非」『宗教法』2003年22号、宗教法学会)。健康なドナーが顔見知りのレシピエントに肺、肝臓、腎臓など臓器の一部を移植することは認めるが、脳死状態のドナーとレシピエントとの間には「隣人愛」が成り立たないので、移植すべきではないという。
例えば血液は臓器ではないが、人体にとって生命を保つためには極めて大切な成分であり、輸血は他人からの「移植」とも言える。しかし、これに反対するプロテスタントの神学者はほとんどいない。献血は、必要とする患者に血液が投与されることを望む「隣人愛」の精神に基づいて行われるが、輸血を受ける患者は同型の血液の投与について、当然与えられる医療行為と考え、提供する個人に直接感謝を伝えるわけではない。献血した人の個人情報を教わることもない。
しかし、人類の中でお互いに助け合うということは神の愛によるものと考えられ、輸血もその中の一つとして考えられる。角膜移植もレシピエントはドナーとの直接的な関係はないが、レシピエントがドナーへの感謝を抱き続けることは容易に考えられる。このような精神的な関係で、皆が幸せになることを神は喜ばないだろうか。
脳死の場合でも、ドナーとレシピエントが精神的に助け合うことはあり得る。ドナーは天国から自身の臓器を提供され幸せに生きるレシピエントのことを思い続けるかもしれないし、レシピエントもドナーへの感謝を抱き続けることはできる。直接的な「隣人愛」ではないが、精神的な連携はあり得るのではないだろうか。
もし、脳死の心臓移植を自己中心主義として反対するなら、同様に通常の輸血も自己中心主義となり、また互いの状況を知らない者同士の「移植」となるので、やはり反対しなければならなくなる。
これが心臓死の状況であれば、身体の一部を今まで交流のなかった人に提供することに関して、反対意見はなかった。現在、脳死が法律的にも死亡と見なされ、心臓死とあまり変わらない状況では、角膜移植が認められるのと同様に心臓移植も認められるべきではないか。
一部の神学的な反対意見は、神への信仰こそが重要であり、脳死の状態になった人が他人に自らの臓器を与えるのではなく、神への愛を重んじ、立派に天寿を全うすることを期待している。しかし、「善きサマリア人」のたとえにある通り、神は人間同士の愛を極めて重く考え、律法的な信仰だけで愛のない状態は望んでおられない。
私は医師として48年勤務した。心臓血管外科の専門医として医療に従事し、大学教授時代には日本の医師仲間と共に医学の発展に寄与しようと努めてきた。いかに学問が発展しようとも、人間の生命の神秘を完璧に捉えるにはほど遠く、人間の知能で生命を作り上げることはできないと確信している。脳死の仕組みも以前よりは解明されてきたものの、すべてが理解されているわけではない。ただ、心臓死と極めて似た状態であることが推定され、脳死移植も心臓死移植と同じく互いの愛の精神が連なるように、多くの人々が協力し合えることが大切だと考えられる。
神はすべての生命を創造され、すべての人間が互いに愛の精神を持って生きながらえることを期待している。脳死にしても心臓死にしても、体内に残された臓器は神によって造られたものである。移植を受けた患者は、生命の大切さに触れ、キリスト者でなくとも神の愛に気づく機会が生まれないとも限らない。
世界的に見ても臓器移植の症例が少ない日本だが、今後、ヨーロッパ、アメリカ、アジアと同等に移植件数が増えれば、高水準にある日本の医療技術の恩恵を受ける人々が増え、社会的にも大きく前進できる。移植を通じて、より多くの人々に神の愛が伝わることを期待したい。
神によって生命を与えられた者同士が互いに愛し合い、臓器を提供することも大きな愛の業であり、神の志を担うことになると考える。
たかもと・しんいち 外科医(専門は心臓血管外科)。1947年兵庫県生まれ、愛媛県松山で育つ。東京大学医学部胸部外科教授、三井記念病院院長などを経て2021年4月より現職。日本キリスト者医科連盟(JCMA)全国委員。
【JCMA主催「脳死臟器移植」勉強会】
「脳死臟器移植を聖書からどう考えるか」2月12日(土)午後1~4時、早稲田奉仕園セミナーハウス(東京都新宿区)、Zoom。講師=髙本眞一、秋山徹(日本基督教団総幹事)、木村利人(早稲田大学名誉教授)、山崎正幸(賛育会病院チャプレン)。申し込み、問い合わせはJCMA事務局・相馬(Tel 090-9137-0224)まで。