オンラインで維持されるもの、失われるもの 東島宗孝 【宗教リテラシー向上委員会】

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新型コロナウイルスの感染拡大を受けて、オンライン坐禅会という取り組みが各寺院でなされるようになった。禅宗(黄檗宗・曹洞宗・臨済宗)の中心的修行法とされてきた坐禅を、僧侶の修行に準拠した形で在俗の人々(在家)も実践できる形にした催しが坐禅会である。しかし、感染症の流行に伴いさまざまな宗教行事、祭礼が中止されたように、多くの寺院が坐禅会の休止を余儀なくされた。その結果、増加したのがオンライン坐禅会である。

オンライン坐禅会は2020年4月以降、「臨済宗青年僧の会」をはじめ、寺院や僧侶個人の主催により、ZoomなどのWeb会議サービスやYouTubeを用いて開催されるようになった。会では坐禅、法話、読経など対面の坐禅会とほぼ同様のことが行われる。2021年10月現在も、家にいながらにして、坐禅の時間を他者と共有し、僧侶の法話を聞く機会として多くの人に利用されている。

しかし、オンライン坐禅会の限界として二つの点が挙げられる。第一にリモートでの開催という点である。禅宗の指導はしばしば「不立文字 教外別伝 直指人心 見性成仏(ふりゅうもんじ きょうげべつでん じきしにんしん けんしょうじょうぶつ)」という言葉で表される。意訳すれば、「禅の真理は言葉や概念では教えることができず、師弟間の以心伝心で伝えられる」ということである。そのため禅宗は無言行を重視し、文字による勉学ではなく実体験の中で気付きを得ることを評価してきた。非対面かつ、対話ツールを通した指導は参加者たちの体験や坐禅に対する認識に影響を与えると考えられる。

第二に坐禅の意義が僧侶側から言語化され、参加者の経験を規定しかねない点である。「自分と向き合う時間をとる」または「1日の最後に静かに座る時間を」というような文言が、各寺院のホームページや会での僧侶の言葉の中に散見される。しかし、禅宗では修行の目的を定めることや、効用を期待することがしばしば忌避される。それは前述の指導スタイルと関係する。つまり、他者から与えられた出来合いの言葉や概念を通じては本来の悟りは得られないとする姿勢である。戦後の坐禅会の増加に対して「功利主義的」という批判があったことや、ストレス軽減を志向するマインドフルネスなどの瞑想に対して否定的な声があるのも、そういった禅宗の姿勢に起因する。上記の意味では、僧侶から坐禅の意義が具体的に説かれることは従来の禅宗の指導において好ましくないともいえる。

では、オンライン坐禅会によって会における禅本来の姿が失われたのかといえば、そうともいい切れない。対面の坐禅会でも修行や禅、仏教から離れたさまざまな理念に基づいて在家の参加者たちは実践してきた。教養、癒やし、ストレス解消など実に多様である。また、僧侶側も修行の文脈を押し付けるのではなく、日常生活と両立できる形態を模索したり、禅宗にはない実践を取り入れたりして会の形を変容させてきた。つまり坐禅会は、僧侶と同じ修行を行う場というよりは在家の人々に日常生活の傍ら、禅に触れてもらう場ということが大前提ともいえる。

ただし、再び対面の坐禅会を開催した時、僧侶たちは上記の限界に向きあった上で、改めてそこでの禅について試行錯誤を迫られることは想像に難くない。無言行など坐禅実践の根本的な要素は保たれるのか。禅に限らず、オンラインで表象・言語化され得ない宗教経験はコロナ後、いかに再構築されるのか。実践の場がオンラインの可能性だけでなく、限界に向き合う時期の到来が予想される。

東島宗孝(宗教情報リサーチセンター研究員)
ひがしじま・しゅうこう 1993年神奈川県生まれ。慶應義塾大学院社会学研究科博士課程在籍中。論文に「『伝統』としての禅の解釈と軋轢―臨済宗円覚寺における泊りがけの坐禅会の事例から」(『人間と社会の探求』)がある。

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