心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。
マタイ5章3節(参照箇所同書5章1-12節)
有名な山上の説教の冒頭を飾る主の言葉です。この聖句に続いて。祝福を意味する「幸いである」との言葉が九つ続くので九福の教えと言われています。もともとの聖書原文では、「幸いである」という言葉は文頭に置かれるので、<祝福されているのですよ。心の貧しい人々は>という意味で、祝福が先なのです。それだけに祝福は強い宣言であることが分かります。
主は、九福の教えを語り始められるにあたって、心が貧しい人々は祝福されているのだと言われます。それだけにここにはひとしお深い意味があると思われます。貧しいとはなにも持っていないということで、心が貧しいとは、心になにもないので砂に水がしみ入るように神の言葉を受け入れることを意味します。なによりも、主はそのような人こそ真っ先に祝福を受けるのだとお考えになったのでしょう。
これを心が貧しい者の立場になって考えるなら、「わたしは神の言葉がいつも不足しています」と言っているようものです。つまり神の言葉を受け入れる空きが幾らでも残っているのです。けれども主は、そのような人たちは祝福されていると言われるのです。