焚き火塾(大頭眞一代表)とキリスト新聞社の共催によるオンラインセミナー「一般恩恵と普遍啓示論の邂逅――震災とコロナ禍を経て」が9月10日に開催され、事前申し込み者と飛び入り参加も含め約50人が視聴した。「一般恩恵」から未信者(非信徒)へのキリスト教葬儀を実践してきた清野勝男子氏(日本同盟基督教団土浦めぐみ教会顧問牧師)と、新刊『普遍啓示論 そこに立ち現れる神』(ヨベル)で「普遍啓示論」を提唱した濱和弘氏(日本ホーリネス教団小金井福音キリスト教会・相模原キリスト教会牧師)が、それぞれの牧会経験をふまえた実践に基づき、新しい時代の宣教観について語り合った。司会は本紙の松谷信司が務めた。
濱氏は前著『人生のすべての物語を新しく』(教文館)で「傘の神学」という救済論を展開し、従来福音派が掲げてきた贖罪論的救済論を「シェルターの神学」と表現。「シェルター」は入口で信仰告白や悔い改めを達成してから足を踏み入れることができる空間であるのに対し、「傘」はどの角度からも駆け込むことができる包括的な空間を指す。発端は「心の奥底にある痛みは教会で語られる福音によって救われるのか」という「救済論」の意味について考察していた2000年初頭。アウグスティヌスの原罪論が形成される過程での問題点、東方正教会の神化論に基づく救済理解のアプローチを学び、徐々に贖罪論を見直す必要性を覚えたという。また、東日本大震災を経て「従来の福音派の福音理解は通じない」と衝撃を受け、「実存的困難からの救済」についてキリスト教はいかに語り得るかを模索し、普遍啓示論の基盤を提示した。
新刊『普遍啓示論』では、社会で発生している実存的な課題を「イエス・キリストの出来事や聖書による神の介入」という特殊啓示論ではなく、「自然や人間存在、歴史を通して立ち現れる〝神のある〟」を土台とした普遍啓示論から考察し、これまで福音派で自明とされてきた啓示と救済の理解についての再検討を試みた。
「キリスト教の持つ排他性への挑戦」と自ら評した濱氏は、特定の対象だけでなく人類が有する普遍性(直観や宗教性)から等しく神は働きかけ、そこから救いへとつながる可能性を現代の教会はより考察すべきであると主張した。
清野氏は、日本の教会が未信者の葬儀について「極めて消極的」だった背景には過度な特別恩恵の強調があったのではないかと提起。「すべての人は神から許可された命が与えられた存在である」という「一般恩恵」の視点を通して、開かれたキリスト教葬儀の可能性について発信を続けている。
「一般恩恵」は、オランダ王国元首相であり改革派教会の牧師も務めたアブラハム・カイパーによって作られた用語。堕落後も被造物世界に存在し続ける「神のかたち」を指し、罪の抑制や救いへのきっかけを与えると理解されている。他方、伝統的なキリスト教会はイエス・キリストの存在と聖書の言葉への応答という「特別恩恵」を強調する傾向があり、清野氏によればそれ自体は誤りではないが、特別恩恵のみに注目することは本来神が人類に与えようとしている「恩恵」そのものを見落とすことにつながると訴えた。
また、一般恩恵と特別恩恵は対立する概念ではないとも強調。一般恩恵という土台の上に特別恩恵が位置し、これらは別の救済方法ではなく「神は恩恵により教育や芸術を通して特別恩恵を理解させようとする」という。
セミナーでは2人の発題を受けて、参加者も交えながら議論。「汎神論ではない」とする普遍啓示論に対し、「他宗教でも救われるのか?」と問われた濱氏は、「私たちの中にある神のかたちが結実していくのであれば、あえてキリストという名前が出てこない生き方の中にもキリスト教が立ち上がることはあり得る」とカール・ラーナーらによる「無名のキリスト者」の考えを紹介した。
大震災を機にパラダイムシフトを経験したという濱氏に対し清野氏は、宣教師として国外に滞在していた際、「自明のことと解釈されている言葉ひとつでも地域が変われば途端に通じなくなる」異文化体験を通じて、それまでの保守的な信仰観が覆されたという。濱氏は「人間の言葉では神を語り尽くせない」という事実に立ち返る必要性を訴え、「福音派か否かという問題ではなく、福音を語るという営みについてキリスト教会が根底から問われる」と語った。
対談の模様はYouTubeから視聴できる。
https://www.youtube.com/live/eiTIOYYSJb4?si=_hEWuL-112dn9HjD