「最後の食欲」を満たしてあげたい子の気持ち【聖書からよもやま話292】

主の御名をあがめます。

皆様いかがお過ごしでしょうか。MAROです。
本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。

聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は  旧約聖書、創世記の27章です。よろしくどうぞ。

 

創世記 27章4節

そして私のために私の好きなおいしい料理を作り、ここに持ってきて、私に食べさせてくれ。私が死ぬ前に、私自ら、おまえを祝福できるように。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)

イサクは自分の二人の息子のうち、上の子のエサウを自分の後継として祝福しようと思っていました。だったらすぐにでも無条件にエサウを祝福すればよかったのに、「その前においしい料理を作ってくれ」なんて条件をつけたものですから、その条件を弟ヤコブに悪用され、騙されて、結局ヤコブを後継として祝福することになってしまいました。

どうしてイサクは祝福に条件をつけたのでしょう。しかも「料理が食べたい」なんて、とても俗っぽい条件を。

たぶん、人間って最後まで俗っぽいものなんじゃないかと思います。死の間際でも、祝福という大切なことの前でも、「おいしいものを食べたい!」という欲求はつよく心にあり続けるのではないかと思います。よく、人間の三大欲求として、食欲・性欲・睡眠欲が挙げられますが、その中でも特に食欲というのは最後まで残るのかと思います。
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僕も親しい人を何人か亡くしましたが、人生のいよいよ最後を迎えるにあたって、性欲のことを口にする人はいませんでしたし、睡眠欲について口にする人もいませんでした。でも最後まで「○○が食べたい」という気持ちはみんなかなり強くあったようです。たとえば祖母はプリンを食べたがりましたし、父はカツオを食べたがりました。そう考えると、僕もいつか人生の最後を迎えるとき、きっと「眠りたい」とか「人肌恋しい」とかよりも、「○○が食べたい!」と思うのではないかと思います。

そしてその「最後の食欲」は残される者としてはなんとしても叶えてあげたいと思うものです。祖母は亡くなる前日にプリンを食べられましたが、父は結局カツオを食べられませんでした。多少病院に怒られてもいいからなんとかして食べさせてあげたい!と思ったのですが、さすがに生モノを病室に持ち込むことは難しく・・・。結局、そのまま父は亡くなり、葬儀のときの仕出し料理のマグロをカツオに変更するくらいのことしかできませんでした。

イサクの「最後の食欲」についても、結果的には、言いつけに背いて騙したとしても、それを満たした弟ヤコブが祝福を受けることになりました。そのことでその後のエサウとヤコブの人生は大きく変わりました。食欲って、ときに人の人生を一転させるほどに強いものなんだなー、なんて思います。

そしてもはやこれは聖書とはなんの関係もないですが、これからも大事な人の「最後の食欲」にはできる限りの手を尽くしたいな、と思っています。今でも父にカツオを食べさせてあげられなかったことが心残りで、後悔まではしていませんが、カツオを食べるたびに父の顔を思い出します。

それではまた明日。

主にありて。
MAROでした。

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