王様はどんなに多くても「半分」しかくれません【聖書からよもやま話288】

主の御名をあがめます。

皆様いかがお過ごしでしょうか。MAROです。
本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。

聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は  旧約聖書、エステル記の7章です。よろしくどうぞ。

エステル記 7章2節

この酒宴の二日目にも、王はエステルに尋ねた。「あなたは何を願っているのか。王妃エステル。それを授けてやろう。何を望んでいるのか。王国の半分でも、それをかなえてやろう。」
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)

権力者が「お前の望みを叶えてやろう」という時に、例示としてよく出てくるのがこの「国の半分でも」という表現です。オスカーワイルドの『サロメ』でもヘロデ王はサロメに「踊ってくれたら褒美に国の半分でもあげよう」と言いますし、初代『ドラゴンクエスト』のラスボスである竜王も「もし わしの みかたになれば せかいの はんぶんを ○○に やろう」と、主人公を誘惑します。

しかし考えてみれば、彼らはみんな自分の持っているものの半分しかくれないんです。どんなに愛している人に対してでも半分が最大限で、それ以上はくれないんです。「もう、あなたのことを愛してるから僕の王国のすべてをあなたにあげちゃいます!」とは言わないんです。基本的にはこれが人間の「与える」ということの限界なのかと思います。

僕たちだって基本的には同じです。何かの募金に自分の全財産を寄付する人はまずいません。自分の分をちゃんと確保した上で、いくらかを寄付します。教会への献金だって、全財産を献げる人はいません(それを平気で求める「偽教会」はありますが)。人間はなかなか「自分の分を確保する」ことをやめられません。それを咎める気はありません。僕だってそうですし、いえむしろなかなか半分だってあげられません。自分もお腹が空いているときに、他のお腹が空いている人に自分の持っている食べ物を「半分あげます」と言える人は立派で優しい人だと思います。僕にはできる自信がありません。

イエス様は、それが非常に少額な2レプタ(現代日本の価値で150円くらい)であっても、自分の全財産を献げたやもめに対して「この人は他の誰よりも多くを投げ入れました」と言って褒めました。これは「王よりえらい!」と言っているに等しいのではないでしょうか。だって王様なら半分しかくれないんですから。2レプタを持っていたなら1レプタしか投げ入れなかったはずですし、それが最愛の人に対しても最大限の行為だったはずですから。

そしてイエス様は、いっさい「自分の分」を確保することなく、そのすべてを、命に至るまで、愛のために投げ捨ててくださいました。「僕の半分を君たちのために使う」なんて言わず、すべてを十字架において投げ打ってくださいました。とんでもない愛だと思います。

もちろん、自分の分の確保なんて考えずにたくさん教会に献金しましょう!なんて言いたいわけではありません。「せめて半分は献金しましょう!」なんて、どこかのカルト宗教みたいなことを言う気も毛頭ありません。1割だって大変なことですし、神様もそれ以上は求めていません。そうではなくて、多くの人がどんなに多くても「半分」としか言えないのに、「全部!」と身を捧げたイエス様のすごさを共有したいんです。どんな権力者も「半分」、イエス様は「全部」なんです。すごいことです。そんなとんでもない愛によって、僕たちは包まれているんです。

それではまた明日。

主にありて。
MAROでした。

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