粘土は固すぎても柔らかすぎても困ります。【聖書からよもやま話270】

主の御名をあがめます。

皆様いかがお過ごしでしょうか。MAROです。
本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。

聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は旧約聖書、エレミヤ書の18章です。よろしくどうぞ。

エレミヤ書 18章6節

「イスラエルの家よ、わたしがこの陶器師のように、あなたがたにすることはできないだろうか───主のことば───。見よ。粘土が陶器師の手の中にあるように、イスラエルの家よ、あなたがたはわたしの手の中にある。(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)

神様はよく陶器師にたとえられます。彫刻家でも画家でもなく陶器師です。粘土は陶器師の思いのままに自由に形を変えることができます、作りかけのものを初めから作り直すこともできます。お皿として作りかけていたものを花瓶に作り替えることだってできます。彫刻ならそんなわけにはいきません。彫刻はある程度彫り進めてしまったら、後から彫り直すことはできません。彫り直すにはまた最初から木や石を彫らなくてはいけません。粘土には陶器師次第で無限の可能性があるんです。

神様が陶器師なら、僕たち人間が粘土です。つまり人間には神様の心次第で無限の可能性があるということです。粘土が皿から花瓶へと、まったくその形を変えるのができるのと同じように、人間もまた、人生の途中であってもまったくその在り方を変えることができます。傷がついてしまっても簡単に埋めることができます。

ただし粘土は自分の意志では何者にもなることができません。粘土が何者かになるためには陶器師の意志が必要です。優れた粘土は陶器師の意志通りに、柔らかく従順にその姿を変えます。固すぎて形を変えにくい粘土や、柔らかすぎて形を保てない粘土はよくない粘土です。人間にも同じように、神様の心に従順に柔軟に従う姿勢と、神様によって与えられた在り方を保つ姿勢が求められます。
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人間には、固すぎる粘土が多いのかなと思います。神様が花瓶に作り替えようとしているのに「嫌だ!僕は皿になりたいんだ!」と頑なになってしまうことが多いのかなと思います。一方で、神様に立ち返って悔い改めても、いわゆる三日坊主ですぐにもとの生活に戻ってしまうことも多々あります。これは柔らかすぎて形を保てない粘土だということです。

人間が死ぬということ、これは粘土が最終的に焼き上げられて陶器になるように、完成品として焼き上げられるということなのかもしれません。死というのはつい「陶器が割れてしまうこと」みたいに捉えてしまいがちですが、そうではなくて、こね上げられて最終的な形になった粘土が陶器として完成することなのだと捉えれば、死もまたただ怖いだけのものではなくなるように思います。反対に言えば人は生きている限りまだ完成品ではなく、柔らかい粘土の状態であり、変わり続けるものなんです。生かされている限りまだ完成品ではないということなんです。

よき粘土でありたいものです。

それではまた明日。

主にありて。
MAROでした。

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横坂剛比古(MARO)

横坂剛比古(MARO)

MARO  1979年東京生まれ。慶応義塾大学文学部哲学科、バークリー音楽大学CWP卒。 キリスト教会をはじめ、お寺や神社のサポートも行う宗教法人専門の行政書士。2020年7月よりクリスチャンプレスのディレクターに。  10万人以上のフォロワーがいるツイッターアカウント「上馬キリスト教会(@kamiumach)」の運営を行う「まじめ担当」。 著書に『聖書を読んだら哲学がわかった 〜キリスト教で解きあかす西洋哲学超入門〜』(日本実業出版)、『人生に悩んだから聖書に相談してみた』(KADOKAWA)、『キリスト教って、何なんだ?』(ダイヤモンド社)、『世界一ゆるい聖書入門』、『世界一ゆるい聖書教室』(「ふざけ担当」LEONとの共著、講談社)などがある。新著<a href="https://amzn.to/376F9aC">『ふっと心がラクになる 眠れぬ夜の聖書のことば』(大和書房)</a>2022年3月15日発売。

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