大事なことだから5回言いました。【聖書からよもやま話208】

主の御名をあがめます。

皆様いかがお過ごしでしょうか。MAROです。
今日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。

毎回、新旧約聖書全1189章からランダムに選ばれた章を読んで、僕の心に浮かんだ事柄を、ざっくばらんに話してみようという【聖書からよもやま話】、今日は 旧約聖書、   レビ記の8章です。それではよろしくどうぞ。

◆レビ記 8章9・13・17・21・29節

主がモーセに命じられたとおりである。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)

この箇所にはモーセの兄アロンが祭司に任命される時に行われた儀式について、こと細かく書いてあります。どんな服を着せたかとか、どんな手順で牛を焼いて生贄にしたかとか、「そんなに細かく書く必要ありますか!?」ってほどに細かく書いてあるのですが、その一つ一つの記述の度に「主がモーセに命じられたとおりである。」という一文が繰り返されるんです。

ある一文が繰り返されるということは、その一文が大事なことであるということです。文章においてもスピーチにおいても、特に伝えたい大切なメッセージは繰り返します。歌だって、いわゆるサビは繰り返されます。大事じゃないことを繰り返す人はいません。1章の間に「主がモーセに命じられたとおりである。」という一文が5回も繰り返されているということは、これがものすごく大事なことであることを示しています。その大事さたるや「大事なことだから2度言いました」の比ではありません。なんてったって5回も言ってるんですから。さらには聖書全体では20回もこの「主がモーセに命じられたとおりである。」という一文は繰り返されています。今日のレビ記8章では5回ですが、出エジプト記39章では6回、40章では7回も繰り返されています。

ではどうしてこの一文がそれほど大切なのでしょう。それはこの祭司任命の儀式が、人間主催ではなく神様主催で行われたことを示すからです。つまり物理的に儀式を行なったのはモーセをはじめとする人間ですが、アロンを祭司に任命したのは人間ではなく神様であったということです。たとえばもしこの儀式をモーセが「兄貴のためにこんな式典にしてあげよう」なんて趣向をこらして行なったのだとしたら、それはモーセがアロンを任命したことになってしまいます。しかし実際はそうではなく、この儀式にはモーセの意思や趣向はまったく介入せず、モーセはいわば神様の手足や口として、あくまで神様が決めたことを粛々と実行しただけだったのだということが、この繰り返しによって強調されているんです。

日曜日の礼拝も同じことなのかと思います。礼拝について「もっと讃美を増やした方が神様は喜ぶのではないか、もっと祈りを長くした方が神様は喜ぶのではないか」なんて人間の工夫を取り入れたくなったりすることもありますが、礼拝もアロンの任命式と同じように神様主催のものであって、人間主催のものではありません。礼拝は、神様のために人間主催で行うものではなく、神様主催で人間のために与えられているものです。礼拝の場で、クリスチャンは教会から社会へと派遣されるわけですが、派遣というのは「任地へ向かわせる」ということですから、これも一種の任命です。教会から人間を派遣するのは人間ではなく神様なのである、と、このことがこの繰り返しの一文から気付かされたことです。

「言われたとおりにしかできないのか!もっと自分で考えて工夫しろ!」なんて言われることも世間では多々ありますが、ひたすらただ言われた通りにやることが求められる時だってあるんです。工夫を加えるべきことと、加えてはいけないことがあるんです。工夫の力は人類に与えられた大きな贈り物ですが、どんなに優れたツールにも使うべき場とそうでない場があるんです。

それではまた明日。

主にありて。
MAROでした。

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