謙虚な心を失った先には「がっかり」が待っています。【聖書からよもやま話180】

主の御名をあがめます。

皆様いかがお過ごしでしょうか。MAROです。
今日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。

毎回、新旧約聖書全1189章からランダムに選ばれた章を読んで、僕の心に浮かんだ事柄を、ざっくばらんに話してみようという【聖書からよもやま話】、今日は 旧約聖書、  エステル記の6章です。それではよろしくどうぞ。

◆エステル記 6章6節

ハマンが入ってくると、王は彼に言った。「王が栄誉を与えたいと思う者には、どうしたらよかろう。」ハマンは心のうちで思った。「王が栄誉を与えたいと思う者とは、私以外にだれがいるだろう。」
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)

ペルシャ王クセルクセスが大臣のハマンに「功績を讃えたい部下がいるんだけど、どんな讃え方が良いと思う?」と相談すると、ハマンは勝手に「やった!これは私が讃えてもらえるに違いないぞ!私は讃えられて当然だからな!」と勘違いしました。そしてあれやこれやと自分が受けたい待遇を並べ立てました。それはほとんど「私を王のように扱ってください」と言っているのと同義なほどに贅沢な待遇でした。しかし、それを聞いた王は「ありがとう。じゃぁその通りに、モルデカイ君を讃えることにするから手配しておいてね、ハマン」と言いました。ハマンはモルデカイのことが嫌いでしたから、自分の望みが叶えられなかったばかりか、その望みが嫌いなモルデカイに与えられるという二重の「がっかり」を味わうハメになったのでした。

何かの賞をもらうだとか、何かの役職に出世するだとかいう場合、「私こそそれにふさわしい!私がそれを受けるにちがいない!」と思っている人は、往々にしてそれをもらえないものです。まして神様の祝福とか恵みとかならなおさらです。「私こそ神様の祝福と愛を受けるにふさわしい者だ!」なんて思っている人を神様は祝福しません。神様はそういう傲慢な態度をとても嫌う方です。神様に限らず、人間だってそうですよね。誰だって「俺こそその賞にふさわしいんだ!さぁはやくそれをよこせ!」なんて態度の人に何かをあげたいなんて思わないものです。謙虚な心を失った先に待っているのは大きな「がっかり」です。
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反対に「そんな素晴らしいもの、私なんかにはもったいないですよ!?」という人をこそ、神様は祝福します。そしてその祝福と恵みは本当に、誰にとってもあまりに素晴らしくてもったいないほどのものです。でも人間はついつい、毎日それを受け取っていると「私なんかにはもったいないですよ!?」という心を忘れて「私がそれを受け取るのは当たり前のことです」という態度に変わってしまうんです。すると神様は「そんな態度ならこれは他の人にあげることにしようっと」と、その祝福を奪ったりします。その時、人は「なんで私にくれないんですか!」とか「どうして奪うんですか!」と神様に文句を言いますが、実はその原因は神様への感謝を忘れた自分の心にあるのかもしれません。

神様の祝福と恵みを「僕が受け取って当たり前だ」という態度、ここにクリスチャンが陥りがちな悪魔の落とし穴があるんです。「当たり前」に感謝はありません。日々、自分の感謝の心をチェックしなければならないと思います。今日食べるものがあること、住む家があること、着る服があること、笑えること、眠れること、どれも決して「当たり前」ではないんです。

それではまた明日。

主にありて。
MAROでした。

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