【断片から見た世界】『告白』を読む 「元初」に再び遭遇すること

「元初を反復し、別の元初へと変身させること」

私たちは「存在の意味への問い」を問い進めることを通して、「哲学の元初」という問題に突き当たりました。この「元初」なる出来事に関して、ハイデガーは『形而上学入門』講義の中では次のように言っています。

「存在はどうなっているのか?と問うことーこれはわれわれの歴史的–精神的現存在の元初を反復し、それを別の元初へと変身させることにほかならない。このことは可能である。それどころか、これが歴史の決定的形式である。というのは、これは根元の出来事の中にきざすものだからである……。」

「元初」を「別の元初」へと変身させるとは、どのようなことを言うのでしょうか。今回の記事では、これから時間をかけて「哲学の元初」をめぐる探求を進めてゆくにあたっての準備を整える意味で、この点について考えてみることにします。

「元初」を反復するとは、いかなることを意味するか

上に引用した言葉に続いて、ハイデガーは次のような言葉を残しています。

1935年時点における、ハイデガーの言葉:
「存在はどうなっているのか?と問うことーこれはわれわれの歴史的–精神的現存在の元初を反復し、それを別の元初へと変身させることにほかならない。このことは可能である。それどころか、これが歴史の決定的形式である。というのは、これは根元の出来事の中にきざすものだからである。だが一つの元初が反復されるというのは、決してその元初を、以前のもの、今ではわかりきったこと、ただまねをすればよいものと考えて、ネジを巻き直すように、自分をもう一度そこへと連れ戻すことを言うのではなく、その元初がもっと根源的に再び始められ、しかも真の元初というものが伴うはずの奇異なもの、暗いもの、不確かなものを伴って再び始められることを言うのである。われわれが考えている反復とは、何がどうあろうと、決して、今までのものを手段として、今までのものを改良しつつ、それをさらに推し進めるということではない……。」

上の言葉にも示されているように、思索者としてのハイデガーにとって、「元初」を反復するとは、まさしく未曾有の出来事としての「元初」に、歴史上の今のこの時点において再び遭遇することにほかなりませんでした。

このことは、私たちが「哲学の歴史について、すでに何事かを知っている」と思っている場合には、かえって難しくなってしまうかもしれません。たとえば、私たちのもとには、タレスやアナクシマンドロス、ヘラクレイトスやパルメニデス、エンペドクレスといった「前ソクラテス期」の哲学者たちが最初に現れ、それからアテネの運命的な時期、ギリシアが東方の専制帝国であるペルシアに輝かしい勝利を収めた後に訪れた混沌の時代に、まずソクラテスが、次いでプラトンとアリストテレスが現れて、その後の二千年間にわたって探求され続けた「形而上学」なる学的探求が開始されたという歴史の流れが、今に至るまで語り伝えられてはいます。

けれども、こうした出来事の全ては、これらのことがなぜ起こらなければならなかったのか、その必然性を私たち自身の哲学的実存において反復するのでない限り、いわば死んだままにとどまってしまうのではないか。「元初」は忘却された開闢の出来事として、思索する私たち自身の存在を呼び求め続けているのであって、この呼び求めに応答し、「元初」における「『ある』の衝撃」に遭遇し直すことを通じてこそ「私たちは、なぜ哲学しているのか?」という問いに対する答えも明かされうるというのが、1930年代以降にハイデガーが練り上げていった歴史の見立てであったものと思われます。

「哲学そのものの始まりに、もう一度遭遇すること」

論点:
「元初」を問うこと、それは、「私たちはなぜ哲学しているのか?」という問いに対する最も根源的な答えを探し求めることに他ならないのではないか。

2023年の現在に至るまで、哲学なる営みは、知恵の探求に身を捧げる人々によって連綿と受け継がれてきましたが、この営みの歴史は、「形而上学」なる学問の歴史とかなりの部分まで重なり合っています。私たちが生きているこの現代において、人間は、「私たちは生まれてくるべきではなかったのではないか?」という問いを切迫した仕方で問うようになってきていますが、そのことと連関するようにして、もうすでに大分以前から、「形而上学」なる学の可能性は疑問に付されるようになっています。「哲学は死んだのではないか?」という問題提起は、それが単にジャーナリスティックな関心に基づくものであるならば、思慮の欠如という誹りを免れることは難しいけれども、私たちの時代を突き動かしている根本の動向をその最も深い射程において捉えようと試みる場合には、あながち荒唐無稽とも言いがたいものをはらんでいるのではないか。後年のハイデガーは、「形而上学の終焉」という主題を提起した後、1976年に世を去ってゆきましたが、それからまだ50年も経っていない2023年の現在において哲学することへと向かっている私たちにとっても、この主題はなおも考究されるべきものを宿したままであると言えるのかもしれません。

これらのことに関しては、時間をかけて「哲学の元初」を問い尋ねることを通して、少しずつ探ってゆくほかなさそうです。しかし、今回取り上げたハイデガーの言葉からも予想されるのは、哲学する人間の自己は、「元初」において問われていたものを探し求めることを通してこそ、揺らぐことのないものとして見出されてゆくということに他ならないのではないか。

私たちは、「哲学」なる言葉のもとに何か探し求めるべきもの、追い求めるべきものが存在するのではないかと予感しています。しかし、その私たちは、この「哲学」という営みが究極においては何を尋ね求めているのか、一体何が哲学をして哲学たらしめるものであるのかについては、その答えを見出さないままにとどまり続けているのではないだろうか。哲学の言葉は、「知恵の探求は、〈ある〉の衝撃に目覚めることから始まった」と私たちに告げている。哲学する人間は、遥かな時を超えて、起源としての「元初」へと遡ってゆくことを通してこそ、「わたしはなぜ哲学しているのか?」という問いに対する答えに到達することになるのではないか。全ての探求が後戻りすることのできないものとして始まった「元初」に行き着いた時には、哲学する人間に対して、「わたしは何と出会うために生まれてきたのか」という問いに対する答えも示されることになるはずである。この意味からすると、「元初」は私たちの後方に位置するのではなく、はるか先の行く手において、私たちの到来を待ち受けていると言わざるをえないのではあるまいか。「元初」を「別の元初」に変身させるとは、哲学の道を行く私たちが、「形而上学の終焉」の時代において、私たち自身の「生まれてきたことの意味」として再び哲学そのものの始まりに遭遇する出来事を指し示す表現に他ならないと言うこともできるのかもしれません。

おわりに

「しかし思索の元初とは何であるのかー存在者そのものと存在の真理とを省慮するという意味において、何であるのか?」と、ハイデガーは自らが世を去るまでは決して公刊することのなかった『哲学への寄与論稿』の中で問うていました。「存在の超絶」の理念を問い尋ねるようにして進んでいる私たちの探求もまた、いずれは「元初」そのものの内へと具体的に突き入ってゆく必要があるのではないか。次回からの記事では、この作業に取りかかるための準備として、「歴史性」の問題に取り組んでゆくことにしたいと思います。

[この一週間が、平和で穏やかなものであらんことを……!]

 






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