【対談】島田裕巳×大和昌平 葬儀が変わる、そのとき教会は?(前編)

 

映画「エンディングノート」

──宗教学者の島田裕巳(しまだ・ひろみ)先生は、2010年に出された著書『葬式は、要らない』(幻冬舎新書)が30万部のベストセラーになりました。クリスチャンではない島田先生にとって、キリスト教葬儀はどのようなイメージでしょうか。

島田 真っ先に思い浮かぶのは、「エンディングノート」(2011年、砂田麻美監督)という映画です。監督のお父さんが病気になって亡くなるまでの過程を描いた記録映画ですが、そのお父さんがクリスチャンではないのに、なぜか「キリスト教で葬儀をあげたい」と言い出すんですね。その理由を本人は、「キリスト教式は安いから」と言うのです。確かに「仏式は高く、キリスト教式は安い」というイメージはあるのですが、映画を見ていて「果たしてそれだけなのかな」と。この映画は、葬儀とキリスト教を結びつけて考える一つのきっかけになったと思っています。

──大和昌平(やまと・しょうへい)先生は東京基督教大学で教えておられて、これまで仏教とキリスト教の比較研究や日本における葬送儀礼の研究をされてきましたが、この映画はご覧になられたでしょうか。

大和 この作品は私も興味があって、大学の講義でも使っています。団塊世代のモーレツ・サラリーマンだったお父さんがガンになり、自分なりに意味ある死に方をしたいということで、以前、四谷で見かけたカトリックの聖イグナチオ教会を葬儀の場に選ぶんですね。キリスト教式の結婚式は、ファッション的なこともあって普通に定着しているのですが、葬儀はなかなかそういうわけにはいきません。私としては、「あの町のあの会堂で葬儀をやりたい」ということで、キリスト教式葬儀も広がっていったらいいなと、この映画を観て思いました。

島田裕巳氏(左)と大和昌平氏

地上での最後の礼拝

島田 そもそもキリスト教では、葬儀はどんな位置づけで、どういう意味内容を持っているのですか。

大和 故人にとって「地上での最後の礼拝」という位置づけです。礼拝堂に棺(ひつぎ)を置いて最後の礼拝をし、地上でのお別れをするというのがキリスト教葬儀の基本です。牧師は、故人の生き方やどんな信仰を持っていたかについて、故人が好きだった聖句から伝え、地上での最後の礼拝を共にします。その後、参列者が前に出てきて、「お疲れさま」という思いを込めて棺の中の遺体を花で飾り、賛美歌を歌ってその棺を送り出すというような内容です。

島田 プロテスタントとカトリックの違いはありますか。

大和 儀式の方法に多少違いはあると思いますが、故人にとって最後の礼拝(ミサ)という点において変わりはありません。

島田裕巳氏

コミュニティーが崩壊し、直葬が増える

──今後、日本人の葬儀に対する考え方が変わっていくのでしょうか。

島田 歴史的に考えたほうがいいと思います。日本の葬儀というのは、特に村社会の中では非常に重要で、埋葬に至るまでコミュニティーの一つでした。キリスト教の話を聞くと、やはりコミュニティーですよね。キリスト教徒ならキリスト教式でほとんど埋葬され、その人たちは牧師なり神父なりと生前から深い関係にある。まさに村社会のコミュニティーです。

いま都市の仏式葬儀では、ほとんどお坊さんとの関係はありません。たいていは葬儀社を通してお坊さんを依頼するので、お寺とは全然関係ないわけです。集まってくる人も故人とは関係があるが、その人たち全体がコミュニティーを作っているわけではありません。そこに、現在の仏教式葬儀とキリスト教式葬儀の大きな違いがあるように感じます。

大和 それから、これまでは檀家制度に縛られたことで、葬儀では他のオプションがなく、仏式葬儀が継承されてきたように思います。今では、都市で暮らす人のほとんどがお寺との関わりがなく、お寺で葬儀をすること自体が崩れてきています。また、高齢化が進む中では、「葬式に何百万円もかけたくない」ということで、直葬(亡くなると火葬場へ直接搬送し、通夜や葬儀を行わない)を選ぶ人も増え、特に東京では急増しています。共同体での葬儀というものが都市では壊れ、そこに新たに直葬という葬儀のかたちが現れたと感じています。

島田 日本は農業中心で、確固たるコミュニティーがあったから、村制度が進展し、寺請(てらうけ)制度も浸透したと言えます。明治になると、村社会は制度としては廃止されましたが、慣習としての檀家制度は戦後になるまで継続されてきた。その中では、仏式で葬られることに疑問はなかったわけです。

葬儀後も、何年にもわたって法事などがあって、お寺との関係が続き、お寺を介してのコミュニティーが生きていたんですね。ところが戦後、都市化が進み、そういったコミュニティーは崩れてしまった。地方でも、今では葬儀はほとんど葬祭会館でやっていて、葬式というイベントになってしまいました。そういう意味では、共同体としての葬儀の意義は薄れて、参列者の多い一般葬は減り、簡略化が進んでいくというのが現状ではないでしょうか。

弔(とむら)いのない社会

島田 現代は、人が死んだという事実自体も共有されなくなっています。NHKの大河ドラマでも、重要な人物の死をナレーションだけで伝え、実際に死ぬ場面はやらないことが話題になっていました。現実でも、死んでも葬儀をやらない、あるいは身内だけですませる葬儀も多いわけですから、故人を知る人たちに死んだことが伝わってこない。死という出来事、葬儀という出来事が、完全にその家や故人の周辺のプライベートな出来事になって、付近の人たちには関係のない出来事になってきているように強く感じます。

大和 東日本大震災で、津波に流されてしまった遺族のために、牧師が海に向かって思わず十字を切ったそうです。プロテスタントが十字を切ることは普通しないのですが、その行為だけでも遺族は非常に慰められたそうです。

人が死ぬということの重さを考えると、ある意味、大仰な儀式をして別れないことには、残された人は先に進んでいけない。ですから、「弔う」ということは宗教に関係なく必要なことであって、それをしなくなった社会というのは、深いところに不安が残っていくのではないかと考えています。共同体が崩れていく中で、葬儀が形骸化し、きちんとした別れをしないことの怖さのようなものを感じるのです。(後編に続く)

 






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