【断片から見た世界】『告白』を読む 「心」とは何か?

「声」の経験は、アウグスティヌスを「信じる人間」へと変えた

31歳の頃のアウグスティヌスにとって、「声」の経験は「ある」、あるいは「存在する」という言葉の意味そのものが転覆されてしまうような衝撃をもたらす出来事に他なりませんでした。

「そこでわたしは、『真理は有限の空間にも無限の空間にもひろがらないから、無であるのではなかろうか』とたずねた。そうすると、あなたははるか彼方から、『わたしは存在するものである』と叫ばれた。わたしはこの声をあたかも心で聞くように、聞いたので、疑いの余地はまったくなくなり、『造られたものによって悟られ、明らかに知られる』真理の存在を疑うよりはむしろ自分が生きていることを疑ったであろう……。」

上の箇所は、この出来事を通して彼が「信じない人間」から「信じる人間」へと変えられていったという意味でも、特に重要なものと思われます。今回の記事では、哲学の歴史にとっての運命的な論点であったとも言える「コギト・エルゴ・スム」との関連において、この点について考えてみることにします。

「呼び声」と「コギト・エルゴ・スム」

上に引用した箇所を、後半部に着目しながらもう一度見てみることにします。

アウグスティヌスの証言:
「そこでわたしは、『真理は有限の空間にも無限の空間にもひろがらないから、無であるのではなかろうか』とたずねた。そうすると、あなたははるか彼方から、『わたしは存在するものである』と叫ばれた。わたしはこの声をあたかも心で聞くように、聞いたので、疑いの余地はまったくなくなり、『造られたものによって悟られ、明らかに知られる』真理の存在を疑うよりはむしろ自分が生きていることを疑ったであろう……。」

ここで注目しておくべきは、アウグスティヌスにおいて、「信じない人間」から「信じる人間」への変容は、ある意味では「考えるわたし」の存在の確実性をも超え出ていると言わざるをえないような、途方もないリアリティとの遭遇を通して生起したという点なのではないかと思われます。

17世紀の哲学者であるデカルトが提出した「コギト・エルゴ・スム(わたしは考える、ゆえにわたしは存在する)」について、ここで改めて考えてみます。彼が主張する通り、思考する自我、すなわち、今ここでこうして考えているわたしには全てのことを疑うことが可能ですが(「この世界は、本当は存在しないのかもしれない」「ここでこうして考えているわたしは、狂っているのかもしれない」「そのわたしが今ここで考えているというのも、夢なのかもしれない」等々)、それでも、「考えるわたしが存在する」という一点だけは、どのようにしても揺らぐことがありません。哲学の歴史において、このことを「発見」したのはデカルトというわけではありませんでしたが(実は、この論点を最初に決定的な仕方で問題にしたのは他でもない、アウグスティヌスその人に他なりませんでした)、このことを、哲学的思考のあり方そのものを規定するような根源的事実として改めて取り上げたという意味では、やはり彼の功績には小さからぬものがあったと言うこともできそうです。

ところがその一方で、アウグスティヌスが『告白』のこの箇所で語っているのは、彼にとって、絶対他者であるところの神の「声」を聞くという経験には、「考えるわたし」の存在の確実性をも超え出るような何物かがあったという点にほかなりません。「真理の存在を疑うよりはむしろ自分が生きていることを疑ったであろう」という表現のうちには、何よりも確実なものであるようにも思われるコギトなる存在が、法外な出来事との遭遇を通して、コギトよりも確実であるかもしれないものの存在を驚きと共に証言するという、「存在論的なねじれ」とでも呼ぶほかない構造が体現されているのではないか。わたしの存在を超えて、〈ある〉ことそのもの、〈存在〉そのものが存在する。実存の苦しみの淵にいるわたしを呼んだ声はこの、全ての存在者を超え、存在することそのものを超えて存在する〈ある〉からの呼び声に他ならないのではないだろうか。このような観点から事柄を捉え直してみるとき、『告白』のこの箇所からは、2023年の現在における哲学が「他者」や「存在」の問題について考えてゆく上でも無視することのできない論点を見て取ることもできるのではないだろうか。

「彼方」へと向かう実存、あるいは、「心」が存在することの意味

論点:
コギトあるいは「心」とは、実存する一人の人間であるところのわたしが、「あなた」と呼びかけるほかないような他者に出会うことになる場所に他ならないのではないだろうか。

『告白』のこの箇所において語られているアウグスティヌスの「声」の経験は、彼個人のものであることを超えて、人間が何事かを信じるということの核心に触れるものであるように思われます。というのも、この出来事を経験した時の彼は、何かの主張や理論を受け入れようと思って、それを鵜呑みにするようにして信じたのではなく、むしろ、それまでの自分の物の見方を超え出てしまうようなリアリティに触れることを通して、より正確には、「触れられる」ことを通して、ほとんど自分でも気づくことのないうちに、「信じる人間」へと変えられているおのれ自身を見出したからです。この観点からするならば、信じることとは、主体としての人間存在が行う自発的な行為であるというよりも、人間が「古い人」を脱ぎ捨てつつ、「新しい人」へと作り変えられてゆく時に起こる実存の変容のプロセスを言い表す言葉に他ならないと言うこともできるのかもしれません(「信じるとは、信じ始めてしまっている自分自身に気がつくということである」)。

私たちが生きている日常においても、これと同様のことは日々起きているのではないか。私たちが直接に、あるいは本の上の言葉などを通して無数の隣人たちのうちの一人に出会うとき、彼あるいは彼女から発せられる言葉は、私たち自身の存在を日々生まれ変わらせてゆかずにはおきません。「『あなた』が存在する!」という驚きは、そのまま「他者である『あなた』が存在すること」への信としてわたしのうちに実存的な変容を引き起こし、わたしの心を自分自身の「外」、あるいは「彼方」へと連れ出すことになります。愛や教育の経験においてはこのことが特に際立つことになりますが、こうしたことは程度の差はあれ、私たちの日常のうちで日々刻々と起こっている生のリアリティに他ならないと言うこともできるのではないだろうか。〈他者〉とはその本質ならざる本質からして、主体であるわたしの意味世界を覆さずにはおかないような存在なのではないか。

いずれにせよ、これらのことはいずれも「心」や「意識」と呼ばれているもののあり方に関して、その核心において問いを投げかけてくるものであると言えるもののように思われます。すなわち、コギト、あるいは「考えるわたし」とは、閉域のうちで窒息させられたモナドに、独在性の地獄のうちで死に侵され続けてゆく主観にすぎないものであるのか。それとも、わたしが真に「わたし自身」としての自分自身になるのは、「あなた」という二人称を通して呼びかけるほかないような他者に呼び出されることを通してなのであって、ここにおいては、「〈他者〉である『あなた』が存在する!」という驚異こそが、信じることそのものの生起を引き起こし、わたしはまさしくこの「存在の超絶」との関わりのうちで、自らの実存そのものに改めて向き合うことになるのだろうか。従って、実存とはその本質からして「『彼方』へと向かう実存」であらざるをえず、コギトあるいは「心」とは、閉域あるいは死などではいささかもなく、むしろ、わたしがわたし自身の意識を超え出る「彼方」に向かって言葉を語りかけ、そこからの言葉に耳を傾ける「啓示の圏域」に他ならないということになるのだろうか。『告白』のこの箇所におけるアウグスティヌスの証言は、もうすでに大分以前から「コギト・エルゴ・スム」の意味について根底のところから考え直そうと試み続けている現代の哲学にとっても、何がしかの示唆を与えずにはおかないものであると言えるのかもしれません。

おわりに

信仰の書には、「『わたしは信じた。それで、わたしは語った』と書いてあるとおり、わたしたちも信じ、だからこそ語ってもいます」という言葉があります。「何も信じないこと」という深い闇が現代の人間を覆い尽くし、心を窒息させようとしています。「私たちは生まれてくるべきではなかった」こそが、そのことがもたらす決定的な帰結にほかなりませんが、2023年の現在における哲学は、信じるということについて何を見出し、何を語ることができるのだろうか。信じることを「存在の超絶」との関わりにおいて根底から問い直し、そのことを通して「存在の意味への問い」そのものを再び問い直すということが、あるいは可能なのではないか。私たちとしては以上のようなことを念頭に置きつつ、引き続き『告白』の道行きをたどってゆくことにしたいと思います。

[この一週間が、平和で穏やかなものであらんことを……!]

 






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