【断片から見た世界】『告白』を読む 命を注ぎ込むようにして、問いを問うこと

「『存在の意味への問い』は現代の人間の運命に、どのように繋がっているのか?」

2023年の現在にあって、アウグスティヌスの『告白』を読む試みは、この試みがこの本で語り出されているところの事柄に根源的な仕方で近づこうと努めるならば、「存在の意味への問い」に突き当たらざるをえないのではないか。今から百年ほど前にこの問いを提起した先人であるマルティン・ハイデガーは、哲学の営みがこの問いを問うための準備を整えるために、自らの生涯を捧げました。

「存在とは単なる語であって、それの意味は一つの幻なのか、それとも『存在』という語で呼ばれているものは西洋の精神的運命を秘めているのか?」

ここに引用したのは、『存在と時間』出版から八年が経った1935年の時点で、ハイデガーが講義の中で発した言葉です。今回の記事では、『形而上学入門』に収められている言葉に向き合うことを通して、哲学の営みが「存在の意味への問い」を問うことの意味について、改めて考えてみることにします。

「私たちの日常は、なぜ……?」

「存在とは単なる語であって、それの意味は一つの幻なのか、それとも『存在』という語で呼ばれているものは西洋の精神的運命を秘めているのか?」

ここで、私たちの時代が後戻りすることのできないグローバル化の過程のただ中に巻き込まれつつあることに改めて思いをいたすならば、私たちは、彼が用いている「西洋の」という表現を、「世界の」と言い換えることもできるのかもしれません。上に引用した箇所に続いて、ハイデガーは次のような言葉を残しています。

「存在の意味への問い」に関するハイデガーの言葉:
「存在についてのわれわれの問いがこのような本質的な決定性格を持っているとすれば、われわれは何をおいてもまず、この問いに直接的必然性を与えるあのこと、すなわち、われわれにとって存在とは、実際かろうじて一つの語にすぎず、その意味はふわふわした幻にすぎぬという事実と真剣に取り組まねばならない。[…]われわれ自身がこの事実の中に立っているのである。それはわれわれの現存在の一つの状態である。[…]ここでは心理学など問題ではなく、問題は本質的観点におけるわれわれの歴史にある……。」

ここで重要なことは、思索する人間としてのハイデガーにとって、「存在の意味への問い」を問うことは、現代の人間が自らのあり方を改めて問い直すことと決して切り離すことができなかったという点であると言えるのではないか。

「存在する」こと、「ある」ことの意味を問い直すというと、非常に抽象的で、私たちの日常とはほとんど何の関係もないことのようにも思えます。しかし、決してそうではなく、「存在の問い」を問うことは、私たちが自分自身の生そのものを問い直すことに等しい意味を持つはずであるというのが、思索者としてのハイデガーが生涯変わることなく抱き続けた根本直観に他なりませんでした。

「ここでは心理学など問題ではなく、問題は本質的観点におけるわれわれの歴史にある。」生きることの意味そのものが危機的な仕方で見失われているというのが、ハイデガーが、私たちの生きているこの時代に対して持っていた歴史的な見立てであったといえます。この喪失は、その根源をたどり直すならば、「『存在する』ということの意味そのものが見失われている」という事実に基づくのであって、哲学の営みがこの根源的な忘却にまで遡っていって、その錯綜を解きほぐしながら「『ある』の意味」を再び解き放ち、その驚くべき未知の豊かさを経験しなおす時にこそ、私たちには、現代という時代そのものに取り憑いている「生きることは虚無にすぎない」の外に出ることも可能になるのではないか。私たちの日常はなぜ、そして、いかなる歴史的な運命に基づいて死んだものと化しているのか。『存在と時間』の出版以後、ハイデガーの思索は、これらのことをますます直接に、より根源的な仕方で問う方向へと進んでいったと言えるように思われます。

「心の沈黙の苦悶こそは、あなたの慈悲を求める大きな叫び声であった」:『告白』という書物を通して、「存在の意味への問い」を問い直すことの意味

「存在の意味への問い」と、現代の人間の運命とを結びつけて考えようとするハイデガーの思索の努力は、場合によっては少しオーバーなものであるようにも映るかもしれません。しかし、『告白』におけるアウグスティヌスの探求の内実を思い起こす際には、「『ある』の意味を問うことは、生きることの意味そのものを問い直すことに等しい」という立場に対する理解も必然的に深められることになると言えるのではないか。

「神よ、産みの苦しみに悩むわたしの心はどれほど苦悩をなめたことであろう。あなたはそれに耳を傾けられたが、わたしは知らなかった。わたしは沈黙のうちに熱烈に探究したが、心の沈黙の苦悶こそはあなたの慈悲を求める大きな叫び声であった……。」31歳の頃のアウグスティヌスにとっては、哲学の書物を読みながら「生きることの意味」を求めるというのは、ほとんど命がけの努力を要求する試みに他なりませんでした。「なぜ自分は生きているのか?」「本当は、わたしは今すぐにでも死ぬべきではないのか?」ともがき苦しむ中で、彼は、プロティノスの思想に触れたことをきっかけにして「ある」の神秘に打たれることになります(ミラノの見神)。真の「ある」とは永遠そのものであり、その根底においては愛に他ならないのではないか。この体験は彼に完全な安らぎを与える所までには至りませんでしたが、この体験を経て以降、彼にとって、「存在する」という動詞がもはやそれまでとは異なった仕方で響くようになっていったことだけは確かであったといえます。

ハイデガーとアウグスティヌスという二人の思索者の探求の足跡をたどり直すところから、見えてくることがあります。それは、2023年の現在において哲学することへと向かっている人間にとっても、「存在の意味への問い」を問うことは、おのれ自身の実存を賭けて行うに値する探求の主題になりうるのではないかということです。

この後に見るように、「公共性の次元において、数の論理が果てることなく荒れ狂い続けている」というのが、ハイデガーが現代の世界に対して抱いていた危機感の中核をなす事実に他なりませんでした。「存在」の問題を提起することは、この数の論理なるものの奔流に飲み込まれることなく、問うべき問いをひたすらに問い続けるという、苦悶に満ちた自己投企を必要とするのではないか。哲学の書物は、人間存在は「ある」の意味に根源的な仕方で出会い直さなければならないと告げている。「存在の意味への問い」を問うことは、私たちを「存在することは災いである」の元へと、従って、「私たちは決して生まれてくるべきではなかった」の元へと連れてゆくのだろうか。それとも、問うことの重荷と苦しみとを引き受けつつ、考えることの受苦をその終局に至るまで貫き通すことを通して、哲学する人間には、「沈黙のただ中で〈善〉そのものに出会う」という未曾有の出来事の可能性について思索する道が開かれるのだろうか。哲学することを通して、「生きることの根源的な意味」なるものの近くへと導かれてゆく人間がこの世にたった一人でも存在するならば、この営みは、命を捧げるに値するものであるはずである。思索には、この現代という時代においても「〈永遠なるもの〉に触れる」という事柄に向かって歩みを進めることが、あるいは可能なのではないだろうか。これらの点について断定を下すことは今のところは差し控えつつ、「存在の超絶」の理念に突き動かされるようにして進んでいる私たちの『告白』読解は、以上のことを念頭に置いた上で先に進んでゆくことにしたいと思います。

おわりに

「心の沈黙の苦悶こそはあなたの慈悲を求める大きな叫び声であった」というアウグスティヌスの言葉は、「ある」の意味を問い直すことが、命そのものへと至ろうとする果てしのない渇望ともそのまま重なり合うものであることを鋭く示すものであると言えるのかもしれません。現代の人間が「存在の意味への問い」を問うことの意味について掘り下げておくために、私たちとしては引き続きハイデガーの『形而上学入門』の言葉に耳を傾けながら考えてみることにしたいと思います。

[この一週間が、平和で穏やかなものであらんことを……!]

 






メルマガ登録

最新記事と各種お知らせをお届けします

プライバシーポリシーはこちらです

 

オンライン献金.com