「やればできる」「なせばなる」という呪い 【発達障害クリスチャンのつぶやき】

Image by Dazai Osamu from Pixabay

 学校の先生の言うことはすべて何かの「洗脳」ではないかと思えるときがあります。いわく「自分のことは自分でしましょう」「ひとに迷惑をかけてはいけません」「時間を有効に使おう」「何事も計画を立てて」。そのうちのひとつが「やればできる」であるような気がします。これは「呪い」かもしれません。

 教員のころ、「努力不足!」という赤いハンコを持っている同僚がいました。ひとりではなくたくさんいました。「できないのは努力不足だ!」というのです。これは、「やればできる」ということの裏返しです。「やればできる」ということを強調すると「やってもできない」という状態は認められなくなるのです。

 私は、「やらなくてもできる」もしくは「やってもできない」ことの多い人間でした。今でもそうです。これは、「勉強は例外」というわけにはいきません。学校の先生が決して認めないものがあります。それは、「勉強も持って生まれたものが大きく、努力ではどうしようもないものがある」という事実です。これを学校の先生が認めると、「努力不足!」というハンコは押せなくなります。「できない」のは本人の責任になります。あるいは教え方が悪いか。これは教師の責任になります。いずれにしても、「生まれつき勉強が苦手」ということを認めない立場です。そして、学校の先生は「やればできる」「なせばなる」と言います。どれほどの子ども、そしてどれほどの大人が、この「変な宗教」を信じているのかわかりません。

 だいぶ前ですが、あるノーベル賞受賞学者が『やれば、できる。』という本を書いていました。同じ大学だったので生協の書籍部にたくさん積んであったのを覚えています。やってできた人はそう言います。バッハも「自分くらい勤勉であれば、だれでも自分くらいになれる」という趣旨のことを言っています。なれません、って。だったら勉強だけが例外であるはずはありません。私は、誰しもができるようなことができません。「disabled」というのは「できない」という意味で「障害者」という意味の言葉です。私は障害者ですから文字通り「できない」人なのです。しかし、以前、医師から「できないと言ってはならない」と言われました。なぜなら人は「できません」と言われると、開き直っているように感じられてカチンとくるからです。でも、「やってもできない」ことは必ずあるのです。「できる生徒」と「できない生徒」で、後者のほうが努力している可能性もあります。できる生徒はそれほど努力しなくてもできますからね。

 「できない」ことの原因を本人に帰すのは、結局「自分のことは自分でどうにかしましょう」と言われているのと同じです。私自身がようやく気がついてきたことは、できないことは人に頼り、わからないことは人に聞き、自分の得意なことをやって生きるべきということです。やっぱり、学校の先生の言うことはほとんど洗脳だった。「やればできる」という言葉は「呪い」になり得るのです。

腹ぺこ 発達障害の当事者。偶然に偶然が重なってプロテスタント教会で洗礼を受ける。東京大学大学院博士課程単位取得退学。クラシック音楽オタク。好きな言葉は「見ないで信じる者は幸いである」。

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