日本宣教におけるキリスト教葬儀 TCU第1回実践神学講習会

 

「日本宣教におけるキリスト教葬儀──未信者に開かれたキリスト教葬制文化を目指して」と題して、第1回実践神学講習会(主催:東京基督教大学〔TCU〕キリスト教葬儀研究会)が20~22日、TCU(千葉県印西市)で開催された。全国各地で教職者や教会役員をしている卒業生20人が参加した。

講師は以下の7人が務めた。TCU国際宣教センター(FCC)所長の倉沢正則(くらさわ・まさのり)氏、FCC日本宣教リサーチの柴田初男(しばた・はつお)氏、TCU副学長で神学部長の大和昌平(やまと・しょうへい)氏、同大大学院教授の稲垣久和(いながき・ひさかず)氏、同大准教授の篠原基章(しのはら・もとあき)氏、日本同盟基督教団・土浦めぐみ教会主任牧師の清野勝男子(せいの・かつひこ)氏、ライフワークス社社長の野田和裕(のだ・かずひろ)氏。

大和昌平氏=20日、東京基督教大学(千葉県印西市)で

初日の20日午前中は、大和氏が「日本人の死生観とキリスト教葬儀」と題して講演を行った。3本の映画「お葬式」(1984年、伊丹十三監督)と「おくりびと」(2008年、滝田洋一郎監督)、そして監督の父親が亡くなるまでの記録映画「エンディングノート」(2011年、砂田麻美監督)を通して、現代日本人の死生観と葬儀のあり方について語った。

「日本人の死生観は、死を前にした時、無常なる現実を受け入れる以外にないという『日本的無常観』であり、それは仏教が背景となっています。また、納棺の儀式から分かるように、死を旅立ちと考えるのは日本人の美学ですが、そこには死後の問題を問う宗教は見られません。

そのような中で仏式葬儀が一般的になったのは、死者を『怨霊』と考える日本人にとって、その霊を鎮(しず)めるための呪術者が必要だったからで、それを僧侶にお願いしたのです。だから、そこには仏教の哲学は関係ありません。

しかし現在、セレモニーホールでの家族葬などが増えており、そこでは、厚労省認定葬祭ディレクターといった宗教性の薄い人が仕切るようになりました。それは、仏教への期待が薄れてきているからではないでしょうか」

セミナーはTCU国際宣教センターチャペルで行われた=20日、東京
基督教大学(千葉県印西市)で

映画「エンディングノート」では、がん末期だった父親が望んだのが教会堂でのキリスト教葬儀だった。また、教会の葬儀に参列した人から「こんな素晴らしい葬儀があるのですか」と大和氏が言われたことに触れて、次のように述べた。

「今後、多死社会となり、自分らしく死ぬとはどういうことなのかをそれぞれが考える時、キリスト教葬儀の持つ意義は大きいと思います。キリスト教葬儀は、命の厳粛さを実感できる場であり、残された者に慰めと希望をもたらす場だからです」

また、死んだラザロのもとに行った時、「イエスは涙を流された」(ヨハネ11:35)こと、パウロが「泣く人と共に泣きなさい」(ローマ12:15)と命じたことから、「葬儀では、共に涙を流し、悲しみを共有することが大きな慰めになります」と話す。

主題講演の後、質疑応答の時間が設けられ、活発に意見質問が交わさ
れた=20日、東京基督教大学(千葉県印西市)で

「古来、キリスト教会は、どんな身分の低い者でも、その遺体を大切に扱っていました。『お疲れ様でした』と、賛美歌を歌い、送り出すのがキリスト教葬儀です」

古代キリスト者たちは死者の遺体を、キリストが復活された日の朝日に向けていたという。「私たちは主イエスを信じることで、『永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている』(ヨハネ5:24)のです」

最後に、「今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである」(黙示録14:13)という聖句を引用して次のように締めくくった。「私たちのキリスト教葬儀に至る思いは、悲しみを共にし、天からの慰めで覆われることです。多くの人にもっとそのことを知ってもらいたいと思っています」

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