「国父」孫文の消失 鄭 睦群 【この世界の片隅から】

台湾行政院で「中正紀念堂(蒋介石記念堂)変革推進部隊」が2023年3月に成立し、行政院長の陳建仁は、「民主主義における基本は個人崇拝の排除と脱権威主義であり、国際社会一般のコンセンサスである。中正紀念堂の変革は、政府と民間、そして政府間で慎重に検討しつつ、協力して推進する必要がある」と述べた。

今日の台湾基督長老教会(以下、長老教会)にとっても、蒋介石とは権威主義の象徴なだけではなく、国民党政府による民間人の大虐殺・弾圧である「二二八事件」*の首謀者でもあるため、2017年には国内すべての蒋介石像を撤去するよう公に呼び求めていた。

他方、蒋介石と同様に党や国の象徴である「孫文」のイメージは、長老教会において蒋介石のように地に落ちてはおらず、ただ「国父」から「平民」へと変化したに過ぎない。これにつき、長老教会が発行する新聞『台湾教会公報』は、興味深い指標といえる。同紙における孫文のイメージ変遷は次のようである。

1970年代、『台湾教会公報』の孫文に関する記事は、中国と台湾の国家的血統を同一視させるものであった。例えば1975年、長老教会北部大会議長だった張清庚牧師は、淡水経営学院(現・真理大学)の感謝祭で「国父孫文は、すでに天に召され、彼の革命は蒋介石総統に受け継がれている。そして、我々に『国家建設の偉業を完遂せよ』との言葉を遺された」と述べた。つまりこの時、孫文は国父であり、キリスト教徒であり、蒋介石は彼の後継者であった。こうした言説は、当時の台湾における国家アイデンティティにほぼ呼応し、孫文の国父としての地位と言動は無条件に尊重されていた。

孫文(1866~1925年)

しかし80年代、台湾で国家的主体性が芽生えると、島内の国家観は徐々に分岐していく。当時、『台湾教会公報』で孫文は依然として「国父」と扱われていたが、それに世論批判という機能が加わった。つまり、「孫文の矛」で「国民党の盾」を攻撃し、当時権力を握っていた国民党政府を尊重しつつも批判できたのだ。後から考えると、この戦略は成功したといえる。なぜなら、長老教会と『台湾教会公報』は、「国父の言動の不適切な引用」のために国民党政府から弾圧を受けることはなかったからだ。

その後、1987年台湾の戒厳令解除後、『台湾教会公報』での孫文の記述は減少し始める。1990年代初期は孫文を国父と扱いつつも、1990年代半ばには孫文像撤去を求める声も上がり、国父としての地位は疑問視され始めた。2000年以降、『台湾教会公報』から孫文はほとんど消失し、彼はそのイメージに傷を受けることなく、「無事に下山」した。

「孫文消失」には、主に二つの理由がある。第一に、戒厳令解除後、台湾では言論の自由が発展し、孫文を用いて国民党政府を批判する必要がなくなったこと。第二に、長老教会の国家アイデンティティが徐々に変化し、孫文はもはや「国父」ではなく、単なる一人のクリスチャン政治家へと変化し、そのため、わざわざ彼を語る必要がなくなったことである。

全体的に『台湾教会公報』は、孫文の「三民主義」(1906年に孫文が発表した中国革命の基本理論)をあまり否定はしていない。それは、孫文自身が台湾と直接の関係を持っていないからだ。そのため、『台湾教会公報』が彼を歴史人物として批評した際も、彼は「偉大なるクリスチャン国父」から一人の「クリスチャン政治家」へと立ち位置が下がっただけで、イメージはほぼ無傷のまま退場することができた。

翻って見れば、こうした孫文とは対照的に蒋介石のイメージが崩壊したのは、蒋介石がこの台湾を長期にわたって支配したことの代償であり、政権交代及び正義の変革上では避けられないプロセスと言えるだろう。(原文:中国語、翻訳=笹川悦子)

*日本統治の終わった台湾で、1947年、中国本土から来た外省人と本省人(台湾人)が衝突、国民党政府の弾圧で多くの死者が出た事件。国民党政権は、事件後、戒厳令を38年の間施行し、政治活動や言論の自由は厳しく制限され、民衆弾圧・虐殺が行われた。

てい・ぼくぐん 1981年台湾台北市生まれ。台湾中国文化大学史学研究所で博士号取得。専門分野は、台湾史、台湾キリスト教史。現在、八角塔男声合唱団責任者、淡江大学歴史学部と輔仁大学医学部助教、台湾基督長老教会・聖望教会長老、李登輝基金会執行役員、台湾教授協会秘書長。

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