5月17日 申命記8章3節

 主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。
申命記8章3節(参考箇所同書8章1〜10節)

ルターは「罪とは、絶望の極みに立ち、一切の希望が失われた状態であって、キリストのところに行くことだけが残されていることだ」と言います。

エジプトを出て、荒れ野を行く民たちは苦難の連続の旅でありました。遂に食べ物に窮し、飢えを待つばかりになったとき、神はマナをもって養われたのです。マナはこれまでだれも食べたことにない、食物であって、飢えなければ食べることはない食物でした。そのマナには特別な意味が込められていることを知らされたのが今日の言葉であります。主イエスもまた荒れ野で試みを受けられたとき、この言葉をもって悪魔に立ち向かわれたのでした(マタイ福音書4章4節)。

すべてが失われ、生きる望みさえなくなった時、最後に手にしたマナによって、人が生きるためにはなにがなくてはならないかを知らされているのです。飢えて食べるものがなくなったとき、必要なものはパンです。しかし、ここにはパンに代わってマナが与えられました。パンだけが生きるすべてではないことのしるしがそこにありました。

飢えなければ食べることはないマナに、ルターの言葉が示すように、人が真に生きるための神の言葉であるキリストが象徴されています。

賀来 周一

賀来 周一

1931年、福岡県生まれ。鹿児島大学、立教大学大学院、日本ルーテル神学校、米国トリニティー・ルーテル神学校卒業。日本福音ルーテル教会牧師として、京都賀茂川、東京、札幌、武蔵野教会を牧会。その後、ルーテル学院大学教授を経て、現在、キリスト教カウンセリングセンター理事長。

この記事もおすすめ