闇の中から響く声
「光あれ。」
燭台に立てられたロウソクに火を灯すとき、私の心にはこの言葉が迫ってきます。キリスト教会では、クリスマスを待ち望む期間として「アドベント(待降節)」という4週間を過ごします。日曜日ごとに一本ずつロウソクに火を灯し、クリスマスの週には4つの灯りが周りを照らします。小さな火でありながら、私の心に感動を呼び起こしているのでしょう。すっと引き込まれる瞬間です。
「光あれ。」
この言葉は旧約聖書「創世記」の一章に記されています。普段は天地創造の物語として読むことが多い場面です。クリスマスとは直接関わりがないようにも思えるのですが、ロウソクに火を灯すその瞬間と、この言葉が組み合わさることで、クリスマスにぴったりだと思うようになりました。
「光あれ。」
私はこの言葉に〝祈り〟が込められているように感じます。聖書が編まれた頃の遠い遠い昔からの、その時代その時代を生きた人々の切なる祈りと願いです。おそらく、どの時代も、特にこの天地創造物語が文字や文章として形になっていくその時期、人々は光を欲していたことでありましょう。「私たちは何者なのか」、「何のために生きているのか」、「なぜこんな目に遭うのか」、「いつになったら平和で幸せな日々が訪れるのか」、誰にもその答えが見いだせない、まるで闇のような暗さの中にあったのではないかと思うのです。神が発したこの言葉は、神の声であると共に、受けとった自分たちの声でもあって、それは心からの切なる祈りとして共有されたのではないか、そして時代も国境をも超えて、綿々と受け継がれてきたのではないか、そのように思えるのです。
「光あれ。」
私も、現在のこの世界に生きる一人として、この言葉に祈りを合わせます。人類が歩んできた長い年月において、私たちはどれほどの愛と命を生み出してきただろうか、反対に、どれほどたくさんの愛と命を失わしめただろうかと、私たち人類に与えられた希望と絶望の両方を思います。
今なお続く紛争、差別、貧困、環境破壊は、私たちに無力感を植え付けようとし、絶望の淵に追いやろうとします。「私たちにできることはない」と思わせ、沈黙と服従を強制するその圧力は、人が人として存在することの意味そのものを奪ってしまう暴力です。
「光あれ。」
この言葉は、その暴力の前に打ちひしがれてしまいそうになる私たちに向けて発した、神のエネルギーなのではないか、私にはそうも思えるのです。あなたがたが必要とするのは、光だ、明日を信じる力だ、生きる希望だ、この言葉を握って生きていきなさいと、神が与えてくれた言葉だと、私は信じます。
三浦綾子の祈り
北海道旭川市にある三浦綾子記念文学館で私は働いています。三浦綾子という作家もまた、「光あれ。」の言葉を大切に握りしめていた一人であったと思います。なぜなら、光のないときを過ごしていた、そういう人だからです。彼女にとっての「光がない」とは、生きる意味が見いだせないということ。小学校教師をしている最中に第二次世界大戦が終わり、敗戦国となった日本。皇国と信じ疑わなかった彼女に突きつけられた光景は、GHQの司令による、教科書への墨塗りでした。幼い小学生、愛する教え子たちに墨を塗らせる彼女は、何を間違ったのか、彼らにどう詫びればいいのか、どうやって責任をとればいいのか、誰に聞いても教えてもらえず、どんなに考えても分からず、ただただ、墨を塗らせていました。おそらく、その墨は闇となって、彼女の心を真っ黒に塗りつぶしていったことでしょう。答えが見つからずに教師を辞めてすぐに肺病になった綾子は、そんな自分に「ざまあみろ」と悪態をついて、自分の命を絶とうとしました。
しかし神は、打ちひしがれた彼女をそのままにはしておかれませんでした。自暴自棄になった彼女のそばに、寄り添い、支え、立ち直らせる人を置いたのです。その人は神の言葉を信じ握りしめていた人でした。その信仰が、綾子に生きる希望と力を与えました。何かを信じることに絶望した綾子でしたが、もう一度、信じる力を得たのです。神の言葉に裏打ちされた人の真実と愛が、闇に輝く光となって、彼女に生きる道を指し示しました。
人は簡単に光を失います。そもそも光を持っていたのか疑わしいほどに弱さを覚えます。あっけないほどです。「わたしは何なんだ」、「このまま生きていていいのか」、「こんな人生、無駄でしかない」。いともたやすく自分の存在とその意味をあきらめてしまう、そういう性質を持ち合わせています。
三浦綾子は、人間とはそんなものなのだ、決して強いものではないと、自身の体験を通して知っていました。だからこそ、人が生きていくには言葉が、自分を成り立たせる言葉が必要なのだと訴えていたのでしょう。そして祈り続けたのだと思います。「光あれ。」と。
言葉をください
三浦綾子が著した作品はたくさんありますが、特に最後の長編『銃口』は、叫びです。まるで絶叫です。「光あれ!」と、無我夢中で叫ぶ彼女の姿が目に浮かぶようです。闇が社会を覆い、だれもが自分の言葉を失い、光を失ってしまう世界。そんなつもりはなかったのに、いつのまにか、人が人に、自分がだれかに、だれかが私に殺意(銃口)を向ける、そんな世の中になっていたことへの驚愕と恐怖。その愚かしさと嘆きが、物語に凝縮され、読む私たちの胸に突き刺さってきます。
「光あれ。」
失意と絶望の真っただ中にある私たちに何ができるのか。『銃口』で三浦綾子は、坂部久哉にこんな言葉を語らせています。
「しかしな竜太、どんな時にも絶望しちゃいけない。四方に逃げ道がなくても、天に向かっての一方だけは、常にひらかれている。(略)絶望してもいい。しかし、必ず光だけは見失うな。」
(『銃口』「最敬礼」の章より)
八方塞がりとも思える、あきらめしかないような状況を打開するにはどんな方法があるのでしょうか。答えの見つかりそうにない難題に対して、綾子は「光を見失うな」と答えました。それはつまり、私たち人間に生きる意味と力を与えるはずの神に、「言葉をください」と祈りなさいと語っているのです。
「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。」
聖書の「ヨハネによる福音書」一章にあるとおり、その「言」がキリストとしてこの世に降誕した、「すべての人を照らす」まことの光が私たちのところに来た、それがクリスマスです。だから、教会ではクリスマスを祝うのです。拳を握りしめ、肩をふるわせて涙を流すほかない、そんな弱さの中にある私たちができことは、生きる力となる、神の言葉を待ち望むこと。神の愛が〝かたち〟となって私たちと共にある、それが信じられるということ、それがクリスマスの喜びです。
「光あれ。」
心を込めて、メリークリスマス!
難波真実(なんば・まさちか)
YWCAは、キリスト教を基盤に、世界中の女性が言語や文化の壁を越えて力を合わせ、女性の社会参画を進め、人権や健康や環境が守られる平和な世界を実現する国際NGOです。