米津玄師(よねづ・けんし)の最新アルバム「STRAY SHEEP(ストレイ・シープ)」が3日、4週連続オリコン週間アルバム・ランキングで1位となった。大ヒット・シングル「Lemon」や「Flamingo」をはじめ、「パプリカ」「まちがいさがし」のセルフカバー・バージョンや、今夜、最終回を迎えるTBSテレビ金曜ドラマ「MIU404」のエンディングに流れる「感電」など、計15曲が収録されている。
また、デジタル音楽配信サービス「Spotify」のオリジナル・ポッドキャスト番組「POP LIFE: The Podcast」で米津玄師特集が全4回で行われ、第1回目が4日に配信された。
「STRAY SHEEP」というのは、直訳すると「迷える羊」「群れからはぐれた羊」「道に迷った羊」という意味。アルバムのジャケットには羊のマスクをかぶった人間が描かれているが、これは米津自身が描いたものだ。
そもそも聖書から来た言葉で、ふつう国語辞典などでは「どうしていいのか分からず迷っている人間」を意味すると解説されている。しかし、聖書を読むと、もっと救いのある言葉であることが分かる。
新約聖書の冒頭にある「マタイによる福音書」には「迷い出た羊」のたとえがある。これは、十字架につけられるためエルサレムに向かう直前に語られたイエスの大説教の最初のほうに出てくる。
弟子たちが「天の国では、一体誰がいちばん偉いのでしょうか」と質問したところ、イエスは一人の子どもを呼び寄せ、彼らの真ん中に立たせて、こう答えた。
「よく言っておく。心を入れ替えて子どものようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の国でいちばん偉いのだ。また、私の名のためにこのような子どもの一人を受け入れる者は、私を受け入れるのである」
そして、「これらの小さな者を一人でも軽んじないように」という戒めのために、この「迷い出た羊」のたとえをイエスは語るのだ。
「ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残して、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。よく言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。そのように、これらの小さな者が一人でも失われることは、天におられるあなたがたの父の御心ではない」(マタイ18:12~14)
もう1箇所、「ルカによる福音書」にも、似たような「見失った羊」のたとえがある。このルカ15章には3つのたとえが語られているが、最初にこの羊のたとえと「無くした銀貨」のたとえという短い話、そして3番目に有名な「放蕩(ほうとう)息子」のたとえという長い話だ。その3つに共通するテーマは「失われたものを取り戻す喜び」。いわば、見捨てられた人間が救われる話なのだ。
その話が語られたのはこういう場面。徴税人や罪人(見捨てられた人)が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来たところ、ファリサイ派の人々や律法学者たち(自分たちのほうが救われていると自負している人)がイエスを指さして、「この人は罪人たちを受け入れ、一緒に食事をしている」と文句を言ったので、イエスはこのたとえを語る。
「あなたがたのうちに、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を荒れ野に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し歩かないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にある」(ルカ15:4~7)
実は「失われた羊を捜す羊飼い」というのは、新約聖書のこの2箇所だけではなく、聖書全体、旧約聖書からずっと一貫して語られているもの。人間は神から離れて自分勝手な道を歩もうとするが、それにもかかわらず神は人間を誠実に愛し続けているということを分かりやすく説明するために、たびたび用いられたたとえなのだ。
「私は失われた羊のようにさまよっています。あなたの僕(しもべ)を捜してください。私はあなたの戒めを忘れません」(詩編119:176)
そういうわけで「STRAY SHEEP」「迷える羊」というのは、ただ単に人間が途方にくれてさまよっているということで終わらずに、「私たちを捜して見つけ、喜んでくださる方がおられる」という希望を示す言葉として聖書では使われていることをぜひ知っておいていただきたい。
ちなみに収録曲に、アルバムタイトルを邦訳した「迷える羊」という曲があり、そのサビで「君の持つ寂しさが遥(はる)かの時を超え、誰かを救うその日を待っているよ、ずっと」という歌詞がある。