キリスト教主義学校と「栄光」 與賀田光嗣 【宗教リテラシー向上委員会】

先日、プロ野球のドラフト会議を見ていた。勤務校は高校野球の強豪校であり、プロ志望の生徒がいる。長年の努力や、野球に対する真摯な姿勢が実ったのだろうか。彼は指名された。彼が野球部に在籍中、甲子園に出ることはできなかった。一般的な意味における「栄光」を手にすることはできなかったと、果たして言えるのだろうか。

甲子園だけでなく、さまざまな表彰式ではヘンデルのオラトリオ「マカベウスのユダ」から第三楽章「見よ、勇者は帰る」が演奏される。旧約聖書続編マカバイ記一をモチーフとした曲である。ユダは紀元前2世紀、セレウコス朝シリアの支配より、宗教的・政治的自由のため戦い、神殿とエルサレムを奪還した。彼らは神殿の清めにおいて「しゅろの葉をかざし、御座の清めにまで導いてくださった」神を讃えた(マカバイ記二10章7節=新共同訳)。

しゅろは古代地中海世界では勝利や栄光の証とされ、古代競技では勝者にしゅろの枝や月桂樹の冠が贈られたという。そこからなのか、夏の甲子園の優勝旗にはラテン語でVictoribus Palmaeと記されている。公式の日本語では「勝者に栄光あれ」となる。Palmaeはしゅろの複数形であり、Victoribusは勝者という意味だからだ。ただしVictoribusは複数形であるから「勝者達に栄光あれ」との方が正確ではある。優勝チームメンバーだけでなく、切磋琢磨したすべての高校球児たちとして読むのも味わい深い。

では、キリスト教的にはどうだろうか。イエスのエルサレム入城時、そこはローマの支配下にあった。人々はイエスを政治的救世主と思い、しゅろの葉を持って歓迎したが、思い描いていた像と異なるため、彼らはイエスを十字架にかけた。そこから教会の伝統は、復活日前の日曜日をしゅろの日曜日と呼び、しゅろで編んだ十字架を祝福し、自分の罪と神の愛を黙想することを勧めるようになった。

注目したいのは聖書における「栄光」の意味である。栄光とは、「聖なる」という言葉と意味を同じくしている。「聖なる」という言葉のギリシャ語の語源には、「切り離す」「分かつ」「離れている」という意味がある。自分に与えられた人生を自己中心的なものから「別つ」、神の御用のために「別つ」ということだ。イエスは神と人を愛するために来られた。「栄光」とは、神の満ちあふれる愛であり、十字架のみ姿そのものなのだ。

さらに語源をたどれば、「栄光」にはヘブライ語で「重さ」という意味がある。この愛の重さに促されて、神は天の高みから地上の私たちへと身を低くされた。十字架を目の当たりにした時、初めて弟子たちは自分がどういう人間であるかを痛感した。そして彼らは愛の「重さ」によって、高ぶる生き方から身を低くする生き方に、誰かと共に生きるあり方に変えられていった。それは神と隣人とを愛する生き方である。そのような生き方は私たちに「平和」をもたらす。聖書における「平和」とは、誰かを大切にして生きることを意味するからだ。

勤務校の建学の精神は「神を畏れて、人を恐れず、人に仕えよ」である。また本校の母教会である神戸聖ミカエル大聖堂の紋章には、ラテン語でad dei gloriam pacemque nobiscum 「神の栄光と私たちの平和のために」と刻まれている。「栄光」とは、愛の意味を知り、誰かを大切にして生きること、「平和」を実現することに他ならない。本校を巣立っていく生徒たちが、誰かを大切にする生き方を歩むこと、彼らに「栄光」あらんことを祈り願っている。

與賀田光嗣(神戸国際大学付属高等学校チャプレン)
よかた・こうし 1980年北海道生まれ。関西学院大学神学部、ウイリアムス神学館卒業。2010年司祭按手。神戸聖ミカエル教会、高知聖パウロ教会、立教英国学院チャプレンを経て現職。妻と1男1女の4人家族。

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