「NCCエキュメニカル・ユースの集い──靖国神社に行っちゃおう!」(主催:NCC青年委員会)が9日、日本基督教団・富士見町教会(東京都千代田区)で開催された。さまざまな国と教派の青年24人が集まり、天皇の代替わりを前にそれぞれの思いを分かち合った。
1990年、明仁(あきひと)天皇が即位した時には、プロテスタントの4つの大学(国際基督教、フェリス女学院、明治学院、関西学院)の学長が揃って大嘗祭(だいじょうさい)に反対の声明文を出すなど、天皇制問題について大きな議論が巻き起こった。しかし、この30年で社会も教会も大きく変わり、当時のような激しい議論は影を潜(ひそ)めている。
そういう中で迎える今回の天皇の代替わりを機会に、自身の信仰と向き合い、信仰を成長させるための一歩にしようという目的で今回の集会は企画された。
最初に、軍人などの戦没者を「英霊」として祀(まつ)る靖国神社を訪れた。富士見町教会から目と鼻の先だ。境内にある奉納物や建造物についての説明を聞いた後、遊就館を見学。「英霊」の遺品をはじめ、戦闘機、絵画や美術品に至るまで10万点という莫大な史・資料が収蔵されている。館内では、靖国神社の神主との短いやりとりもあった。
富士見町教会に帰ってからは、5つのグループに分かれてディスカッションが行われた。
「歴史修正主義の怖さを目の当たりにした」、「靖国は戦前思想が残っている」、「国のために死ぬのが普通と考える時代はやばいと思った」といった靖国神社に批判的な声が上がる一方、積極的に受け止めた意見もあった。「戦争の歴史とキリスト教の問題も省みる必要がある。宗教と歴史を見つめ直すいい機会になった。殺さなければ殺されるという状況にならないために、信仰者としてどういう行動をすべきかを考えたい」
クリスチャン・ホームで育った人は、次のように感想を語る。「家族の影響で、これまで靖国や天皇制をただ批判的に思っていたが、本質的なことは何も考えていなかった。なぜ自分がクリスチャンなのか、改めて考えることができた」
信仰の多様性に着目する意見もあった。「キリスト教信仰で神様は正しいと考えるのと同様、靖国の人たちも『日本は正しい』という前提のもと、あのような行動理念に立てるのだと思った。一歩踏み込めば、彼らもまた信教の自由で守られていて、祀られる自由がある。靖国に特殊性を感じるのは、『神様』という概念を扱うからで、宗教では『神様』という言葉が出てくると、考えの多様性が排除されてしまうことがある。このことは神社に限らず、教会にも言えるのではないか。さらに、『多様性』という観点からすれば、天皇もあってもいい。クリスチャンが嫌悪感を持つべきなのは天皇制ではなく、戦争犯罪ではないか」
これらの意見を受けて、牧師の野田沢(のだ・たく)さん(日本基督教団学生キリスト教友愛会主事)が次のようにコメントした。「私たちの中にある『内なる天皇制』が危険であり、それを持つ人が集まって、天皇制を持ち上げてしまうことに気をつけなければいけない。クリスチャン一人ひとりが、神でないものを神とした反省に立つことが大切ではないか」
最後に、集会を振り返って野田さんはこう話した。「靖国神社や遊就館を実際に訪れたのは、天皇制を制度として頭で考えるのではなく、信仰の出来事として心で感じてほしかったから。NCC青年委員会は出会いを大切にしている。違う教会の仲間と出会い、違う価値観に出会って、その結果、どのように自分の信仰と向き合っていくことになるのかを体験してほしかった。
30年前と今との教会の温度の違いに自分も戸惑っている。しかし当時、教会も社会も自分自身も、戦争についての罪に対して熱くなっていただけで、クリスチャンとして熱くなっていたわけでないのではないのか。このことをみんなと分かち合え、自分のキリスト者としての立場を振り返るいい機会になった」