野球殿堂に入るコツと「幸せ殿堂」に入るコツは同じ【聖書からよもやま話563】

主の御名をあがめます。
皆様いかがおすごしでしょうか。MAROです。

本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。

聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は  旧約聖書、伝道者の書の5章です。よろしくどうぞ。

伝道者の書 5章18節

見よ。私が良いとみたこと、好ましいこととは、こうだ。神がその人に与えたいのちの日数の間、日の下で骨折るすべての労苦にあって、良き物を楽しみ、食べたり飲んだりすることだ。これが人の受ける分なのだ。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)

人は誰しも幸せになりたいと望みます。しかしそもそも幸せってなんでしょう?これを考えることを幸福論と呼んだりしますし、哲学や倫理学の一つの分野でもあります。アラン、ヒルティ、ラッセルの3人が「3大幸福論」と呼ばれたりもしていますが、そのすべてを読んでも、僕はやっぱり「そもそも幸せってなんだろう?」と悩み続けています。ヒントはたくさん与えられても、答えはまだわからないというような状態です。

今日引用した聖書の箇所も、この問いに対するとても大きなヒントかと思います。人はつい、労苦がなくなることを望みますが、ここには労苦がなくなることが幸せだとは書いてありません。労苦の中にあって、「良き物」を楽しむことが幸せだと書いてあります。労苦があってこそ、「良き物」が本当に輝くのであって、労苦なしの「良き物」は真の幸福をもたらさないということかと思います。先に挙げた3大幸福論のヒルティさんもまた、「幸福とは、労働の中にある休息のことだ」というようなことを言っています。休息は労働があるからこそ幸せに寄与するのであって、労働なしにひたすら休息しているのは幸せなことではないと言っています。

幸せって、決して大きなものではないんだと思います。人はなんとなく「大きな幸せ」というものが存在するような気がして、それを夢想しつつ「いつか幸せをつかむ」なんてことを思いがちですが、実は「大きな幸せ」なんて存在せず、あるのは日々の小さな幸せだけなのではないでしょうか。それで、その小さな幸せを一つ一つ集めて丁寧に味わうことが幸せの秘訣なのかと思います。

昨日、イチローさんがアメリカ野球殿堂入りのスピーチで「小さなことの積み重ねによって、人はどこにでもいける」というようなことをお話しされていましたが、幸せも同じかと思います。毎日毎日ひとつずつ、小さな幸せを積み重ねることによってのみ、人は幸せになれるのかと思います。

一日一善よりも、一日一幸。ごはんがおいしいでもいい、コーヒーがおいしいでもいい、布団の匂いにホッとしたでもいい、家族との他愛のない会話で笑顔がこぼれたでもいい、たこ焼きに入っていたタコが思いのほか大きかったでもいい、毎日、宝探しのように小さな幸せをみつけることが、人間が幸せになる唯一のコツかと思います。それを心がけていれば、きっと一日一幸どころじゃなく、一日三幸とか一日十幸とか、もしかしたらもっとたくさんの幸せを見つけることができるようになります。そうなればそのとき、イチローさんが野球殿堂に入るまでにたくさんのヒットを重ねて来たように、幸せ殿堂に向けて着実に一歩を進めているんです。

主にありて。

MAROでした。

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横坂剛比古(MARO)

横坂剛比古(MARO)

MARO  1979年東京生まれ。慶応義塾大学文学部哲学科、バークリー音楽大学CWP卒。 キリスト教会をはじめ、お寺や神社のサポートも行う宗教法人専門の行政書士。2020年7月よりクリスチャンプレスのディレクターに。  10万人以上のフォロワーがいるツイッターアカウント「上馬キリスト教会(@kamiumach)」の運営を行う「まじめ担当」。 著書に『聖書を読んだら哲学がわかった 〜キリスト教で解きあかす西洋哲学超入門〜』(日本実業出版)、『人生に悩んだから聖書に相談してみた』(KADOKAWA)、『キリスト教って、何なんだ?』(ダイヤモンド社)、『世界一ゆるい聖書入門』、『世界一ゆるい聖書教室』(「ふざけ担当」LEONとの共著、講談社)などがある。新著<a href="https://amzn.to/376F9aC">『ふっと心がラクになる 眠れぬ夜の聖書のことば』(大和書房)</a>2022年3月15日発売。

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