本当に大切なものは自分では作れない。【聖書からよもやま話543】

主の御名をあがめます。

皆様いかがおすごしでしょうか。MAROです。
本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。

聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は  旧約聖書、ミカ書の5章です。よろしくどうぞ。

ミカ書 5章7節

わたしは、あなたのただ中から、
刻んだ像と石の柱を断ち切る。
あなたはもう、自分の手で造った物を拝まない。

(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)

偶像礼拝と言うと特にクリスチャンでない方は石像とか木像とか、いわゆる「像」を拝むことをキリスト教では禁止しているんだな、と認識している方が少なくないかと思います。しかし聖書が偶像礼拝として禁止していることは、そういった物を拝むことだけではありません。偶像礼拝と言うのは神様以外の存在を神様と同格のもの、あるいは上位のものとして扱うことを禁止しているものです。「像」というのはいくら立派な造作がなされているとはいえ、実態は石や木に過ぎないもので神様自体ではありませんから、それを拝むことも神様以外の存在を神様と同格として拝むことになる故に禁止されています。つまり像を拝むことは偶像礼拝の一パターンに過ぎないということです。

そんなわけで僕たちが偶像礼拝に陥ってしまう「偶像」というのは世に非常にたくさんあるわけです。お金を神様よりも大事にすればそれも偶像ですし、名誉を神様よりも大事にすればそれも偶像です。礼拝をサボってパチンコに行ったならパチンコが偶像ですし、「神様よりも妻が怖い」なんて人は奥さんが偶像になってしまっているということなんです。

そんな数ある偶像の中で、僕たちが陥りやすいものの一つに「自分の手で造ったもの」というのがあるかと思います。自分で稼いだお金、自分で築き上げた名誉、自分が作った作品・・・人間というのはどうしても「自分の手で造ったもの」を大切にしてしまいますし、それをなんとしても守ろうとします。もちろん、それを守ることは悪いことではありませんし、人間として当然のことでもあるのですが、それ故にこそそれを神様よりも優先させてしまうことが往々にして起こりやすいものでもあります。

僕たちはどうしても、「他者からもらったもの」よりも「自分で造ったもの」を大事にしてしまう傾向があります。でもよく考えてみれば本当に大切なものは自分では造れないんです。たとえば自分の命。これは誰も「自分で造った!自分で手に入れた!」とは言えないものでしょう。食べ物だって突き詰めれば大地や海の恵みであって、確かに農作業によって自分たちの手で造ったようにも見えますが厳密にはそうではありません。抽象的にはなりますが、愛だって自分で造ることはできないように思います。

自分で造ったものと、神様から与えられたもの。これをきちんと仕分けして、神様から与えられたものにきちんと感謝することが幸せを得る上で大切なことなのかと思います。

それではまた。
主にありて。
MAROでした。

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横坂剛比古(MARO)

横坂剛比古(MARO)

MARO  1979年東京生まれ。慶応義塾大学文学部哲学科、バークリー音楽大学CWP卒。 キリスト教会をはじめ、お寺や神社のサポートも行う宗教法人専門の行政書士。2020年7月よりクリスチャンプレスのディレクターに。  10万人以上のフォロワーがいるツイッターアカウント「上馬キリスト教会(@kamiumach)」の運営を行う「まじめ担当」。 著書に『聖書を読んだら哲学がわかった 〜キリスト教で解きあかす西洋哲学超入門〜』(日本実業出版)、『人生に悩んだから聖書に相談してみた』(KADOKAWA)、『キリスト教って、何なんだ?』(ダイヤモンド社)、『世界一ゆるい聖書入門』、『世界一ゆるい聖書教室』(「ふざけ担当」LEONとの共著、講談社)などがある。新著<a href="https://amzn.to/376F9aC">『ふっと心がラクになる 眠れぬ夜の聖書のことば』(大和書房)</a>2022年3月15日発売。

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