主の御名をあがめます。
皆様いかがおすごしでしょうか。MAROです。
本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。
聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は 旧約聖書、列王記第二の25章です。よろしくどうぞ。
列王記第二 25章30節
彼の生活費はその日々の分を、一生の間、いつも王から支給されていた。
王様から一生の間の生活費を支給してもらえるなんて!なんとうらやましい話でしょう。現代で言えば政府から一生の生活費をすべて支給してもらえるようなものです。しかもこれよりも前の節を読めばいわゆる生活保護レベルの生活ではなく、名ばかりとは言え非常に高い地位を与えられたようですし「いつも王の前で食事をした」とありますから、いわゆる「上級の」暮らしであることもわかります。働かずに、上級の暮らしを一生保証される。あぁ、なんと幸せなことか!なんとうらやましいことか!
しかし、この待遇はイスラエル民族最大の患難であったバビロン捕囚のときに、滅ぼされたイスラエルの王であったエホヤキンが、バビロニアの王から受けた待遇です。しかも、エホヤキンは敗戦からあ37年もの期間を囚人として暮らし、ようやく釈放されてこの待遇を受けたのでした。そう考えればうらやましくもなくなってきます。老後の安定した生活のために37年もの囚人生活。
さらに言えば古今東西、敗軍の王や将軍を、勝った側が好待遇で飼い殺しにするというのは戦略的にしばしば行われることです。それはその王や将軍に、再び反旗を翻す動機を与えないためであったり、敗戦国の国民の敵愾心を煽らないためであったりします。ですから、このときのエホヤキンの気持ちはどんなものだったでしょう。生活を保障されているとは言え、自分の国を滅ぼした憎い相手と毎日食事を共にしなければならない気持ちはどんなものだったでしょう。そんな状況ではどんな美食も美酒も、砂を噛むようであったかもしれません。
僕たちは誰だっておいしいものを食べたいと思っていますし、大半の人が死ぬまでの生活を安泰にしたい!という願いを持っているかと思います。でも、本当に最上の美食と、安定した生活を与えられたとしても、それを一緒に共有する相手によっては、それらは何の幸せももたらしません。嫌いな人と食べる尾頭つきの鯛よりも、愛する人と食べる貧相なメザシの方がはるかに大きな幸せをもたらすでしょう。もしかしたら一度や二度ならそんな尾頭つきもおいしいかもしれません。しかし、それを毎日毎日、何年も食べていたらきっと「愛する人とメザシが食べたい」と思うはずです。そのメザシを何よりも望むはずです。
食事も、生活も、それ自体の質よりも、それを誰と過ごすかということが大切です。では僕たちが愛する人、食事や生活を最も幸せにしてくれる相手は誰でしょう?家族かもしれません、恋人かもしれません、友人かもしれません、きっと間違いなくそうでしょう。しかし、僕たちにはイエス・キリストが共にいて、共に食事をし、共に生活をしてくださっています。一緒に食事をする家族がいない、恋人がいない、友人がいない、そんな日や、そんな年月もあるでしょう。でもそんなときでもいつもイエス・キリストは隣にいて、その食事も、生活も、豊かにしてくださいます。そんな愛する人と共にする食事は、お金なんてかけなくても、この上なくおいしいんです。
それではまた。
今年もどうか、よろしくどうぞ。
主にありて。
MAROでした。
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