主の御名をあがめます。
皆様いかがおすごしでしょうか。MAROです。
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聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は 新約聖書、使徒の働きの23章です。よろしくどうぞ。
使徒の働き 23章12節
夜が明けると、ユダヤ人たちは徒党を組み、パウロを殺すまでは食べたり飲んだりしない、と呪いをかけて誓った。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)
パリサイ人とサドカイ人はどちらもユダヤ教の一派でしたが、いわゆる死後の世界があるかどうかとか天使は実在するのかどうかとか、そういった点で違いがあったのでお互いに仲が良くありませんでした。しかし、イエスの教えを伝えるパウロが嫌いだ、という点では一致していたので彼らは徒党を組んでパウロを殺すことにしました。そして、パウロを殺すまでは食べたり飲んだりしないと誓ったのでした。
「誓い」というと、現代日本ではどちらかと言えば美しいもの、正しいもの、好ましいものとして認識されることが多いですが、聖書ではむしろ「誓ってはならない」と教えています。徒党を組んだパリサイ人とサドカイ人は「パウロを殺す」と誓いましたが、その企みは失敗に終わりました。さて彼らは本当に誓いを守れたのでしょうか。パウロを殺せなかったのですから、誓いを守るのなら彼らはずーっと食べたり飲んだりできないはずです。つまり死んでしまいます。聖書には彼らが本当に死ぬまで食べたり飲んだりしなかったのかは書いてありませんが、おそらくその後も食事はしたし水も飲んだことでしょう。彼らは守れない誓いを立てて、誓いを破ったんです。そうでなければ、守れない誓いを立てて命を落としたんです。
では、守れる誓いとはなんでしょう。よくよく考えてみれば、それはかなり少ないものです。「明日、早起きすることを誓います」程度のことでも、何らかの理由で寝坊してしまうこともあるのが人間というものです。「明日、必ずここに来ます」と誓っても、交通事故にあったり、お腹が痛くなったりして来られないかもしれません。人間には明日のことを誓うなんてほぼ不可能なんです。ですから神を信じるクリスチャンが誓うのは、洗礼を受けるときや結婚するときなど、神様が定めたごく限られたときだけです。それ以外の時に勝手に誓うのは、神様の名前を汚すことです。ですからクリスチャンは安易に誓わないんです。
社会ではよく「誓約書」なんてものを求められますけれど、これには正直「本当にこの人たちは誓いというものの意味を分かっているのかしらん?」と疑問を覚えます。選挙の期日前投票にさえ、誓約書を求められます。仕方ないので書きますけれど、僕はこれにとても抵抗を感じます。なんとかならないものでしょうかね。
神様が定めたとき以外に、人間が勝手に誓ったり誓わせたりすることはもうちょっと避けていただけないかなと思います。今回のユダヤ人たちの誓いのように、それは誓いの価値を下げ、場合によっては命を落とさねばならない結果になるのですから。
それではまた。
今年もどうか、よろしくどうぞ。
主にありて。
MAROでした。
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