主の御名をあがめます。
皆様いかがおすごしでしょうか。MAROです。
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聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は 旧約聖書、創世記の48章です。よろしくどうぞ。
創世記 48章14節
ところがイスラエルは、右手を伸ばして弟であるエフライムの頭に置き、左手をマナセの頭に置いた。マナセが長子なのに、彼は手を交差させたのである。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)
イスラエル、即ちヤコブは息子ヨセフの二人の子、つまりヤコブにとっては二人の孫であるマナセとエフライムを「自分の子」として祝福しました。しかし、元々はマナセが兄でエフライムが弟であるのに、マナセの頭に左手を、エフライムの頭に右手を置きました。当時の習慣では、兄に右手を置き、弟に左手を置くのがルールでしたし、兄であるか弟であるかということは現代社会よりも遥かに重要な意味を持つことでした。日本でも少し昔までは法律的にも慣習的にも、長男と次男以下では大きな扱いの差がありましたけれど、ヤコブの時代においてのその差はそれよりも遥かに大きなものでした。
そこでヨセフは「お父さん、反対ですよ。こっちが兄でこっちが弟です」と言ったのですが、ヤコブは「いやいや、これでいいんだよ」と、手をあべこべに置いたままで祝福してしまいました。ヤコブは弟のエフライムの方が長男の祝福を受けるに相応しいと、神の知恵によって分かっていたのでしょう。そしてまたヤコブ自身にも、かつて兄エサウが受けるべき長子の祝福を弟でありながら受け取った過去があります。ヨセフだって、ヤコブの11番目の子でしたが、他のどの兄弟よりも圧倒的に祝福された人生を送りました。
兄や弟、姉や妹、というのは、所詮は人間が決めた序列なのかもしれません。神様の前ではそんな序列はきっと関係ないのでしょう。現代では総じてキリスト教を基盤にもつ文化圏は、儒教を基盤にもつ文化圏に比べて、兄と弟、姉と妹の序列がゆるい傾向にあります。それは聖書のこのようなエピソードが影響しているのかもしれません。
そもそも、先に生まれたか後に生まれたかで人間に差が生じるというのは、よく考えればそれほど理にかなったことではありません。そんなことを言い出したら、昔の人はみんな現代の人よりも優れているということになります。ましてたかだか数年先に生まれたか後に生まれたかで人の優劣が決まるなんてことはあり得ません。
とはいえ、儒教文化で兄を様々な面で優遇するというシステムにも一定の理はあります。それは家の相続権をめぐっての争いを防ぐということです。兄も弟も関係なく、純粋に能力で相続権を決めることにすれば、それをめぐって兄と弟が争うことになります。安易な能力主義は争いのもとになってしまうんです。
僕たち日本人は東洋の文化圏に生きていますから、こうして聖書から東西文化の違いに思いを馳せることもできます。これは東洋人が聖書を読むときに自ずと生じる一種の特権かと思います。幅広い知見や、思考の切り口を持つために、東洋人こそ積極的に聖書を読むべきなんじゃないかと思います。
それではまた。
主にありて。
MAROでした。
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