4月11日「ナルシス主義またはプロメテウス主義」

わたしたちが初めて出発点に立つ時、無限に広がる未知の素晴らしさに息を吞む。それは素晴らしい。そしてその後、「このように無限なものがあるとしても、わたしはそうではない。わたしは限界がある存在だ。もし、神が存在するとしても、わたしが神となる余地などない」という当然の結果に気づき始める。

そしてほぼ全ての人が、この理解の結果、ある種の同じ反応を示すことになる。それは「ナルシス主義(ナルシシズム)」かまたは「プロメテウス主義」と呼ばれるものである。「ナルシス主義」の人は「出発点」から「自分自身が全てを決定できる霊的な境地」へと身を引き込もうとする。無限なんか無視せよ。秘儀なんかを忘れよ。素晴らしい自己を育(はぐく)め。その結果、世界が小さなものとなるかもしれない。でも、それは「わたしの世界」となる。その全てが自分自身のものとなる。

「プロメテウス主義」の人は「出発点」を迂回して無限のスピリチュアリティーに入り込み、それを把握し、操作し、何かを作り出そうとする。ただそこにあって何もしないスピリチュアリティーを何とか管理しようとする。プロメテウス主義は実際的で、実用的で、起業家的で、エネルギッシュで野心的でもある。プロメテウスはそのパワーと美しさを有効に使いたいと考える。わたしたちの間にある「スピリチュアリティー」のほとんどが、ある種の「ナルシス主義」か、またはある種の「プロメテウス主義」か、どちらかの姿をとる。言うまでもなく、ほとんどの「スピリチュアリティー」は「ナルシス主義」と「プロメテウス主義」との混合体である。その混合の割合は一人ひとりの気質や状況に応じて、慎重にカスタマイズされている。

だからこそ、わたしは「立ち戻る」という言葉を使うのである。 ―― つまり、「出発点」に「立ち戻る」ことである。「驚異」という場に戻り、「無限を認識する場所」に戻り、神を礼拝する場に戻ることである。「ナルシス主義」と「プロメテウス主義」へと傾斜する根強い傾向が、わたしたちの内にある。この傾向に対処する第一の方法は「謙遜(けんそん)」を養うことである。造られたままの自分として生きることを学び、大地に寄り添いながら「人間」を実践する。「腐食の土」に指を差し入れ、豊かで肥沃な庭の塵 ―― わたしたちはそれで創造されたものを ―― 指で確かめるのだ。そして、耳を傾けよ。

自分自身を理解する唯一の正確な方法がある。
それは「神がどういう方であり、神がわたしたちに何をしたか」を知ることである。
「わたしたちが何であるか、わたしたちが何をしたか」を知ることではない。
―― ローマの信徒への手紙12章3b節

63db463dfd12d154ca717564出典:ユージン・H.ピーターソン『聖書に生きる366日 一日一章』(ヨベル)
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