「ゆるし」の拒絶は「ゆるされない罪」【聖書からよもやま話507】

主の御名をあがめます。

皆様いかがおすごしでしょうか。MAROです。
本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。

聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は 旧約聖書、エレミヤ書の49章です。よろしくどうぞ。

 

ヘブル人への手紙 2章3節

こんなにすばらしい救いをないがしろにした場合、私たちはどうして処罰を逃れることができるでしょう。

(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)

 

「どうしてもゆるされない罪」とはどんなものでしょう。人を殺すこと、人を裏切ること、神を冒涜すること、唐揚げに勝手にレモンをかけること・・・と、さまざまな「罪」が人それぞれあれこれと出てくるかと思います。しかし、おそらくそのどれもが、神様や人がそれを「ゆるす」と言えばゆるされることです。ゆるす側が「ゆるす」と心を決めれば、ほとんどの罪はゆるされます。

しかし、どうしてもゆるされないケースがあります。それは、ゆるされる側が、ゆるす側の「ゆるし」を受け入れない場合です。被害者が「ゆるす」と言っているのに、加害者が「いや、私はゆるされるべきではない。あなたは私を憎み続けるべきだし、そうしてください」なんて言ってしまったら、ゆるす側もゆるすにゆるせず困ってしまいます。

謝罪が受け入れられない、というケースは世でも時々見るものです。しかし、意外とゆるしが受け入れられないというケースも実は少なくないものです。「自分はあの人にあんなことをしてしまったから、もうあの人と顔を合わせる資格なんてない」と、勝手にその人と距離をとってしまったりすることは、誰にでも起こり得ることではないでしょうか。でももしかしたらその人は、実はあなたのしたことなんてもうとっくに気にしていなくて、むしろあなたに会いたがっているかもしれません。自分で自分の罪を「ゆるされない」と決めつけてしまうこと。これが何よりも「ゆるされない罪」である可能性があるんです。

神様と人間の関係はこれと似ています。神様の側が「君の罪はゆるしたよ。だから会いにきてよ」と言ってくれているのに「いやいや、自分の罪がゆるされるはずがない。」とそれを拒絶してしまうことが、世にはとても多いんです。それをきっと神様は「さみしいなぁ。会いたいのになぁ」と思っています。

それではまた。

主にありて。
MAROでした。

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横坂剛比古(MARO)

横坂剛比古(MARO)

MARO  1979年東京生まれ。慶応義塾大学文学部哲学科、バークリー音楽大学CWP卒。 キリスト教会をはじめ、お寺や神社のサポートも行う宗教法人専門の行政書士。2020年7月よりクリスチャンプレスのディレクターに。  10万人以上のフォロワーがいるツイッターアカウント「上馬キリスト教会(@kamiumach)」の運営を行う「まじめ担当」。 著書に『聖書を読んだら哲学がわかった 〜キリスト教で解きあかす西洋哲学超入門〜』(日本実業出版)、『人生に悩んだから聖書に相談してみた』(KADOKAWA)、『キリスト教って、何なんだ?』(ダイヤモンド社)、『世界一ゆるい聖書入門』、『世界一ゆるい聖書教室』(「ふざけ担当」LEONとの共著、講談社)などがある。新著<a href="https://amzn.to/376F9aC">『ふっと心がラクになる 眠れぬ夜の聖書のことば』(大和書房)</a>2022年3月15日発売。

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