「刻印」を押される時代のなかで――中国カトリック教会が歩んだ道(5) 中津俊樹 【この世界の片隅から】

中国では1950年代初頭から、共産党が主導する新政権の下での国家建設が本格化した。新政権の課題の一つは、国民を政権の「味方」「友人」「敵」に再区分し、中国社会の再編を実現することであった(高華、2014年)。

その手段として導入されたのが「档案(とうあん)」、すなわち全国民の個人情報を政権の管理下に置くことを目的とした個人調書であった。「档案」には個人の生年月日に加え、本人や家族の政治的・社会的ないし歴史的背景などが詳細に記入された。のみならず、本人やその関係者が「反革命分子」などとして処罰された場合には、その事実も記入された。それは、ある人物が新国家の「敵」に等しい存在であることが、消えることのない政治的「刻印」として刻まれることを意味した。

こうして、「档案」は「敵」とされた人々を社会から事実上、排除するための「刻印」に等しい役割を果たすこととなった。それを強化したのが、著名な魯迅研究者である銭理群(1939年~)が「五七体制」と呼んだ、都市部での「居民委員会」による事実上の住民監視、新たな戸籍制度としての「戸口制度」による住民の移動制限、そして食糧配給制度の実施であった(銭理群、2021年)。この体制下で、「人民」という「刻印」を押されていない――逆に言えば、「敵」という「刻印」を押された――人々が社会生活を営むことは、ほぼ不可能になったといってよい。

キリスト者も当然、その例外ではあり得なかった。新政権にとって、無神論を標榜する新国家において信仰を守り続けるキリスト者の存在は、国家と社会の安定を阻害する要因以外の何物でもなかった。カトリック教会に関していえば、ローマ教皇庁は1949年7月、共産主義との一切の関わりを禁じる「検邪聖省令」を発表していた。それを中国のカトリック教会関係者が実行した場合、当局がその人物の「档案」に「反革命的天主教徒」といった内容を記入することは、ほぼ確実であった。それによってその人物が直面するのは、「人民」という「刻印」を押されていないがゆえに「売ることも買うこともできない」という、過酷な現実に他ならない。

このような状況下において、カトリック教会の関係者の一部は「教会を操る帝国主義の手先」との断絶や、「愛国者」としての姿勢を打ち出すことにより、政権と妥協する道を選んだ。1950年代初期にカトリック教会内の組織であった「レジオマリエ」が「国際反革命集団」とされた際、その成員の一部が新聞紙上においてこの組織との「決別」を宣言した事例や(中津、2016年)、「愛国的」信徒がミサの中で「毛(沢東)主席と朱(徳)総司令のために」ロザリオの祈りを捧げた事例は、その表れであった(中津、2012年)。

それにもかかわらず、政権にとって「愛国的」信徒は依然としてカトリック信徒としての意識を持ち続けている点において、本質的に信頼するに値しない存在であった。つまり、「愛国的」信徒たちの妥協にもかかわらず、彼らに「人民」の「刻印」が押されることはなかったのである。この事実は、中国を混乱に陥れた「プロレタリア文化大革命(1966~1976年「文革」)」の中で証明されることとなるのである。

【参考文献・論文】

・高華『歴史筆記Ⅰ』牛津大学出版社(香港)、2014年。
・銭理群『20世紀中国知識分子精神史三部曲 歳月滄桑』香港城市大学出版社、2021年。
・中津俊樹「中国現代史のなかのカトリック教会」『カトリック研究所論集』仙台白百合女子大学カトリック研究所、2012年3月。
・-「中華人民共和国建国期における「レジオマリエ」を巡る動向について」『アジア経済』Vol.57(No.3)、独立行政法人日本貿易振興機構アジア経済研究所、2016年9月。

 

中津俊樹
 なかつ・としき 宮城県仙台市出身。日本現代中国学会・アジア政経学会会員。専門は中国現代史。主要論文は「中華人民共和国建国期における『レジオマリエ』を巡る動向について」(『アジア経済』Vol.57,2016年9月)など。

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