誹謗中傷するのは「正しい人」【聖書からよもやま話500】
主の御名をあがめます。
皆様いかがおすごしでしょうか。MAROです。
本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。
聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は 旧約聖書、歴代誌第二の23章です。よろしくどうぞ。
お盆休み明けに、ちょうど記念すべき500回。
思えば遠くにきたもんです。でも聖書は全部で1189章。
まだ半分にも届きません。気長にゆるゆるがんばります。
詩篇 143章2節
あなたのしもべをさばきにかけないでください。
生ける者はだれ一人
あなたの前に正しいと認められないからです。(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)
生ける者は誰一人、神様の前に「私は正しいです!」と言えません。ヨブ記のヨブは「神様、私は正しいのでどうしてこんな目に遭わせるのですか!?」と問いましたが、神様は「ヨブ、君でさえ正しくはないんだよ」と諭しました。
しかし人は誰しも「自分は正しい」と思いたいものです。自分の意見を誰かに肯定されれば嬉しい気持ちになりますし、否定されればそれがもっともな批判であったとしても、ちょっと気を悪くしたりします。現代は今までのどの時代よりも「自分が正しい」が吹き荒れる時代なのかと思います。SNSでもニュースコメントでも多くの人が「自分が正しい」と主張し、何か悪いことをした人を見つければ「あいつはまちがっているぞ!悪いやつだぞ!」と攻撃します。そしてその攻撃はやむことがありません。一つの「攻撃対象」が見えなくなるとまた次を探して攻撃します。どうして人はこんなに「まちがっている人」を攻撃するのか。それはおそらく、それによって「自分が正しい」と思えるからです。「自分が正しい」からこそ、「まちがっている人」を攻撃する権利があるし、そうしなければならない。そしてその攻撃こそが「自分が正しい」の証明である、とそのような思考構造がそこには見え隠れします。
しかし、「自分もまたまちがっている」という立場に立てば、そう簡単に人を攻撃することはできません。人間は誰しも正しくない。自分もまた人間である。故に自分も正しくない。と、この三段論法の結論を胸のどこかに置いておくだけで、世を悲しませている多くの誹謗中傷合戦もなくなってゆくのではないかと思います。
正しい者がいるからこそ、悪い者は裁かれなくてはなりません。裁きというのは「正しい人」を前提に始めて成立するものです。故に「正しい人」がいなければ、誰も誰かを裁けません。もちろん、聖書の他の箇所に書いてある通り、愛による忠告は大切なことです。誰かの悪い点を野放しにしておけなんてことは、聖書は言っていません。
「私が言っているのは誹謗中傷ではなく批判だ」と主張する人がよくいますが、そこに愛はありますか?批判であってもそこに愛がなければ誹謗中傷に限りなく近いものですし、愛があればそれは忠告です。正しくない者同士だけでなんとか運営しなければならないこの俗世こそ、愛の有無が問われているように思います。
それではまた。
主にありて。
MAROでした。
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