絶望がなければ奇跡は起こらない【聖書からよもやま話492】

主の御名をあがめます。

皆様いかがおすごしでしょうか。MAROです。
本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。

聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は 旧約聖書、創世記の21章です。よろしくどうぞ。

 

創世記 21章7節

また、彼女は言った。「誰がアブラハムに、『サラが子に乳を飲ませる』と告げたでしょう。ところが私は、主人が年老いてから子を産んだのです。」

(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)

 

アブラハムとサラの間に、ついに待望の子どもが生まれました。このときアブラハムは100歳、サラは90歳です。一般常識ではあり得ない高齢出産です。これにはアブラハムもサラも驚きました。いくら神様がかつて「君たちに子どもを授けるぞ」と言ってくれていたとしても、さすがに二人ともそれを心から信じ切ることは難しかったようです。

近頃はテレビやネットで、割と簡単に「奇跡」という言葉が使われます。スポーツなんかちょっとすごい逆転劇が起こるだけでメディアは「奇跡!」と騒ぎ立てます。芸能関係でもちょっと有名な人がコラボするだけで「奇跡のコラボ!」なんて言われたりします。もう「奇跡」の大安売りです。しかし本当の奇跡というのはそんなに甘いものではないのです。誰もがあり得ないと思い、もはや神頼みさえ無駄だと思えるような絶望が打ち破られることこそが奇跡なんです。反対に言えば、誰もがあり得ないと思い、もはや神頼みさえ無駄だと思えるような絶望に打ちひしがれる時こそ、奇跡が本領を発揮するときなんです。

「奇跡は起こらない」とか「奇跡が起きても無理だ」なんて思ってしまうのは、罪です。なぜならそれは神様の力を過少評価することだからです。神様の力を勝手に推し量り、たぶんこの程度だろうと決めつけて評価することだからです。

奇跡は「もう無理だ。あり得ない」からスタートするんです。絶望をひっくり返すことが奇跡の醍醐味です。だとしたら奇跡にはまず絶望が必要なんです。いま、絶望に打ちひしがれている人はいませんか。もしかしたらその絶望は奇跡の下準備かもしれません。もちろん僕は神様ではないですから確実にそうだとは言えませんけれど、奇跡は絶望の上にしか起こらないということは、心に置いておいて欲しいと思います。そう思うだけで、自分の力も湧いてくるものです。

 

それではまた。

主にありて。
MAROでした。

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横坂剛比古(MARO)

横坂剛比古(MARO)

MARO  1979年東京生まれ。慶応義塾大学文学部哲学科、バークリー音楽大学CWP卒。 キリスト教会をはじめ、お寺や神社のサポートも行う宗教法人専門の行政書士。2020年7月よりクリスチャンプレスのディレクターに。  10万人以上のフォロワーがいるツイッターアカウント「上馬キリスト教会(@kamiumach)」の運営を行う「まじめ担当」。 著書に『聖書を読んだら哲学がわかった 〜キリスト教で解きあかす西洋哲学超入門〜』(日本実業出版)、『人生に悩んだから聖書に相談してみた』(KADOKAWA)、『キリスト教って、何なんだ?』(ダイヤモンド社)、『世界一ゆるい聖書入門』、『世界一ゆるい聖書教室』(「ふざけ担当」LEONとの共著、講談社)などがある。新著<a href="https://amzn.to/376F9aC">『ふっと心がラクになる 眠れぬ夜の聖書のことば』(大和書房)</a>2022年3月15日発売。

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